ノルウェー“写真加工=違法”の新法律から考える、世界と日本で異なる「盛り」の価値観

世界と日本で異なる「盛り」の考え方

「盛る」文化は、外見主義であると同時に超内面主義

 「ヒロインフェイスコンテスト」では、まずゲームセンターのプリクラで撮って、それを応募するんです。そのあと同じお店でプリクラを撮った人たちが投票をして、各ゲームセンターの代表が決定する。次に代表になった人たちがインターネット上で公開され、一般投票が行われて、全4期の各回上位5名、合計20名のファイナリストが選出されました。のべ26万人が応募したそうです。

 最終選考はその20人をリアルの会場に集めて行われたんです。加工している顔で応募しているのに、最後は加工していない姿を審査するんだ、と少し驚きましたね。実際の姿を見てみると、インターネット上の顔とは結構違うので、加工していない姿を見られてしまっていいのかなと、私は勝手に気になってしまったのですが、みなさん本当に生き生きとしていました。出場者の方に「そもそもなぜ盛るの?」と聞いたら、「自分らしくあるため」って答えたんですよね。その後、盛ることに力を注ぐ他の女の子たちにも同じ質問をしたのですが、みんな同じように答えました。でも私には、盛っている顔は画一的に見えたので、「自分らしさ」とは真逆な気がして、謎はさらに深まりました。

 もう少し観察したかったので、渋谷に遊びに行くときに同行させてもらったんですが、プリクラ1つ撮るのにも、すごく努力をしていることがわかったんです。機種によって画像処理の仕方やシャッタータイミングが違うから、常に練習してるらしくて。同じ機種を何度も使うことで、使いこなせるようになるそうです。そのあとつけまつ毛を買いに行ったのですが、大量に種類があるにも関わらず全部ひととおり試し、そのなかで自分のお気に入りを3個くらいカスタムしてつけているそうです。その子の話を聞いてるうちに、「自分らしさ」とは努力の結果であり、盛った顔は彼女の作品のようなものなんだと理解しました。彼女たちにとって「自分らしさ」とは、あるものではなく作るものなんです。

 コンテストの最終選考は、こんなにいろいろ試行錯誤して、努力して、作り上げた作品を披露する場だったから、あんなに生き生きとしてたんじゃないかなと気づきました。

 日本の女の子たちを観察していると、素の外見と、作られた外見を、切り離して捉えている様子がよくうかがえます。たとえば美術品だったら、作者と作品を切り離して捉えることがありますよね。それと同じです。でも、こと外見に関しては、作られた外見と、素の外見が重なっているものだからちょっとわかりづらい。それでも彼女たちは、作られた外見という「作品」の部分だけをすくいとって、見ることができているんです。

 これに気がついたとき、コンテストの最終選考で加工していない姿を見せていいのかな、と気になってしまった自分が恥ずかしくなりました。女の子たちはすでに次の段階に進んでいました。バーチャル空間を活かして、テクノロジーで装った自分で生きているのに、私はいまだに、リアル空間での姿とか、生まれ持った顔のこととか、気にしていたんだと気づいたんです。今って外見主義への批判から、ミスコンを廃止する動きもありますが、この「ヒロインフェイスコンテスト」は強い外見主義のように見せかけて、実は内面主義が強いと思うんですよ。努力やセンスや技能のような内から出るものによって作られた外見(=作品)を見せ合う場なんです。そこがフランスの方がおっしゃった外見の意味とは違うところです。

 最近TikTokで、加工前と加工後を両方見せるのが流行ってますよね。加工ありきのルッキズムを逆手にとって、加工前後のズレをうまく使って遊んでいる。動画でテンポよく見せる編集のうまさも含めて、それが「作品」であることが象徴的に現れています。

 これって実は先進的なことなのかもしれません。そもそも写真に写っている時点で素の外見ではないし、その延長として、加工した外見も日本の女の子たちはすっと受け入れてきました。しかし広く世界を見渡すと、多くの人がまだ素の外見にとらわれている。しかし素であることにとらわれすぎると、今後ますます発展する、オンラインでのビジュアルコミュニケーションのテクノロジーを前に、いちいち足踏みしてしまうんじゃないでしょうか。それをすぐに受け入れられる日本の女の子たちには、見習わないといけないところがたくさんあると思っています。

 内面をより引き出すために、外見を作っているということも考えられますね。日本の歴史をさらに江戸時代までさかのぼると、当時の美人画って素人目にはみんなそっくりな顔をしているんです。白粉を塗って、髪型も同じようにしていたようなので、実際に見てもある程度似ていたのではないでしょうか。美人画に多く描かれている高位の遊女は、歌や踊りなどの芸事で評価されていたと言われています。努力で作り上げられるものを評価するために、あえて外見は同じように作っていたんじゃないかと私は想像します。外見を均一化することで、内面を浮かび上がらせていた。今の女の子たちが同じように盛っているのにも、内面を引き立たせる効果があると思います。

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