乙女ゲームにおける“ジェンダー規範”(後編) 日本の乙女ゲーマー&メーカーは、いかにして「それ」を転覆させたのか

乙女ゲームにおける“ジェンダー規範”(後編)

主導権を握るゲーマー

場をコントロールするドゥルーズ的「ポジティヴ」マゾヒズム

 一方、これと対照的な方法として、ゲーマー側が規範に従うことを「ユーモア」として読み替えるという展開がある。端的に言えば、ジェンダー規範に「あえて」そして「徹底的に」従うことで、逆にそれがもつ意味を無効にしてしまうということだ。

 フランスの哲学者ジル・ドゥルーズは、それを「マゾヒズム」的な快楽とよぶ(※4)。しかし彼がいうマゾヒストは、いわゆる「フロイト的サド=マゾヒズム」におけるそれ、つまりサディストによる虐待を受け入れる受動的な立場とはまったくことなる(※5)。

 ドゥルーズ的マゾヒズムの要素はいくつかあるが、とりわけ「自発的な契約」と「制度への徹底的な服従」の二点は特徴的だ。言い換えると「サディストを追い出してみずから選んだ主人と契約し、自分がコントロールする場でルールに沿った儀式としてのプレイを楽しむ」という、一般に言われているのとは真逆のポジティヴな態度として説明できる。

 押しつけられた環境ではなく、自分が作りあげたファンタジーのなかで快楽を享受するというこのポジティヴな態度は、現実の乙女ゲーマー像とも重なる。

 私たちは誰かにプレイを強制されているわけではない。むしろみずからすすんで高額なソフトを購入し、とりわけノベルタイプの作品においては、ボイスやスチル(CG)の回収のためにトゥルーエンドだけでなくバッドエンドもしらみつぶしにプレイし尽くしている。

『華ヤカ哉、我ガ一族 モダンノスタルジィ』(アイディアファクトリー/2015年発売)のイベントシーン。筆者撮影。
『華ヤカ哉、我ガ一族 モダンノスタルジィ』(アイディアファクトリー/2015年発売)のイベントシーン。筆者撮影。
同作のキャラクター別のCG一覧画面。筆者撮影。イベントシーンを通過すると、自動的にそのシーンのCGを獲得できる。
同作のキャラクター別のCG一覧画面。筆者撮影。イベントシーンを通過すると、自動的にそのシーンのCGを獲得できる。

 その姿は、外部からはゲームが「理想的なプレイヤー」のために用意した環境にどこまでも従順なように見える。その内部でゲーマーたち自身が作りあげたそれぞれのファンタジーにおいても、まさにシステムが規定する「正しい鑑賞コース」が辿られる。

 しかし同時に、スキップを多用しつつ何度も周回プレイするなかで、攻略サイトや書籍の手を借りてまで"あえて規定のコースに完璧に沿い続ける"ことをたんに望みのルートのクリアを早める手段としか考えなくなったとき、そこにあったはずの規範性はすでにその本来の力を失っている。私たちはそれを冷笑するのではなく、むしろみずからの快楽のための舞台装置として積極的に利用しているのだ。

 多くの乙女ゲーマーは(ほとんど無意識のレベルで)このポジティヴな「マゾヒズム」的態度を自在にあやつり、ゲーム内のジェンダー規範に従うフリをしながらそれを「ユーモア」として転覆させていると筆者は考えている。

乙女ゲーマーとメーカーの絆

 こうした見方には、ただちに「それは現状に甘んじているにすぎない」という批判があるだろう。だが、そもそも乙女ゲームという「場」が生み出されるプロセス自体にゲーマーが関与しているとしたらどうだろうか。

 前回、乙女ゲームはメーカーもゲーマーも日本国内が中心となっていると述べた。とはいえ、少々古いデータだが2001年から2013年までの家庭用ゲーム機(携帯機含む)の女性向けゲーム市場は、ゲーム市場全体の2%に届くかどうかというところで推移しており(※6)、スマートフォンアプリへの移行で変化している面を考慮しても、世界市場でも首位を争う『ファイナルファンタジー』シリーズなどに比べ圧倒的にニッチな市場であることに変わりはないだろう。

 しかしだからこそ、メーカー側は常にゲーマーの声に敏感にならざるをえなくなり、その声を正しく受け入れた作品ほど息の長いシリーズとなる。ここまで何度も触れてきた『TMGS』や『アンジェリーク』シリーズも、こうしたメーカーとゲーマーの共犯関係のもと成り立っていると言える。その輪の中にいる日本の乙女ゲーマーは、海外の研究者たちが感じたようなジェンダー規範の棘を最初から無効化しているのみならず、それを儀式の道具として利用してさえいるのだ。

 こうした両者の関係は、主導権を握っているのはゲーマー側であり、メーカーはソフトの購入という契約によってそのファンタジーの創造のためのパートナーとして「選ばれる」立場にあることをあらわしている。

 メーカー側もまたこうした関係を理解している。初代『アンジェリーク』の公式ガイドには、「嫌われるテクニック」や「ビターガイド」と称する自虐的なプレイの方法が説明されており(※7)、そこで述べられている「親密度を自由自在に調整しよう」「その〔筆者注: 自分がふられた〕腹いせにふってみたりして」といった記述には、ゲーマーが主導権を握っていいことを、プレイをつうじて意識できるよう働きかけていることがうかがえる。

 主要なメーカーと受け手が別の文化圏に属する状況にある海外の乙女ゲーマーたちが、こうした共犯関係を理解するのは容易ではない。先行研究で乙女ゲームにおけるジェンダー要素がことさらに批判されたのには、こうした背景も無関係ではないだろう。

 だからといって、近年各国でもローカライズがすすんでいるものの、四半世紀にわたるこの蜜月関係を一朝一夕で築き上げることも難しい。そのため英語圏を中心にRichardsのようにゲーマー側が会社を設立したり、同人などでみずから製作にのりだしたりする動きも盛んになっている(※8)。

なぜゲーマーに議論への参加を呼びかけるのか?

 ここまで、例外をあげながらも「乙女ゲームには構造的にジェンダー規範を含む側面がある」ことに部分的には同意しつつ、しかし一部の海外の研究者と国内の乙女ゲーマーではその受け止め方や対応が対照的であることを、事例と理論の両面から述べてきた。そしてその背景にあるゲーマーとメーカーの絆ともいうべき共犯関係に光をあてたうえで、他方でこの輪の外部にいる者からはそうした事情が理解されにくい現状について説明した(※9)。

 今後も続くであろうこうした議論に対し、私たちはどうすればいいのだろうか?このまま海外の「良識派」に期待するか、「放っておいてくれ」と無視し続けるべきだろうか?

 筆者の答えはNoだ。ジェンダー問題をはじめ女性向けメディアに対する批判はすでに起きていることであり、乙女ゲームだけが無関係でいられるとは思えない。なによりこのまま沈黙することで、「もっとも乙女ゲームを理解しているはずの経験豊富なゲーマー」がこれ以上議論の蚊帳の外におかれるような事態は避けるべきではないだろうか。

 ほかのメディアに目を向けると、たとえば一部のフェミニズム運動によって女性の性的欲望が否定されてしまう問題について、社会学者の守如子はレディースコミックやBLマンガを例に論じている(※10)。彼女もまた読者と編集部間でのアンケートはがきや投稿を通じたやりとりをもとに、読者が「安全」を重視していることや、それを編集部が媒体へと反映させていることを説明している。

 「ある女性にとって『脅かされ感』を感じる表現が、『これはフィクションである』というレディコミの『お約束』を理解している女性にとってはマスターベーション・ファンタジーたりうる。ポルノグラフィの『お約束』と個々の関係はさまさまだ」(※11)という彼女の指摘は、ポルノにかぎらず低年齢も対象とする乙女ゲームにおいても積極的に強調していくべきことなのではないだろうか。

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