『クロノ・トリガー』が叶えられない“夢”を僕たちは追い続けるーー記憶を消してもう一度プレイしたい名作に寄せて

「記憶を消してもう一度プレイしたいゲーム」

 このような、タイムトラベルもののストーリーとマルチエンディングを発生させるゲームシステムとが絶妙にリンクした、重層的なシナリオが同作の特徴だ(もちろんマルチエンディングや周回プレイを前提としたゲームシステムはそれ以前にもあったが、これらのシステムがシナリオのテーマと強く絡み合っている点が同作の画期的な部分と言える)。テレビ画面で初めて「つよくてニューゲーム」の表示を見たプレイヤーたちは、お互いにその衝撃を語り合っていたことだろう。

 しかし筆者にはこのような、『クロノ・トリガー』の感動を同時代の世間や仲間と分かち合うような体験はなかった。というのも、筆者が同作を初めてプレイしたのは10年前、中学生のころだ。つまり筆者が初めて『クロノ・トリガー』をプレイした時点で同作はすでに「名作」として知れ渡っていたし、そもそもこんな「昔」のゲームをプレイする人が周りにほとんどいなかった。

 もちろんメインシナリオはネタバレなしでプレイしたため、単純に「初見プレイ」を楽しむことはできた。またエンディングによっては特定のキャラクターのエピローグが異なるため、様々なクリアルートを試していくのもやりごたえがあった(中には作中の女性キャラが女子会トークのようなノリで男性キャラたちを辛口で評価するメタ的なギャグが披露されるエンディングもあり、個人的にはお気に入りだ)。

 しかしこのようにして作中の「歴史のif」をシミュレーションしているうちに、あることに気付くのである。「このゲームが名作として広がり始めた当時の雰囲気をシミュレーションすることだけはできないのだ」と。

 作中ではマルチエンディングを通していくつもの「歴史の if」を試すことができる。「もしこのタイミングでラヴォスを倒したら」、「もしこのキャラクターが仲間だったら」、「ルッカの母親を救うことができたら」といった「たら・れば」を繰り返すことが同作の楽しみだ。というより、もっと言ってしまえば、そもそも「もしこの星がラヴォスに滅ぼされていなければ」という壮大な「if」を構築することこそが、本作の主題である。

 しかし、どれだけシナリオ上の「if」を構築しようとも、いや、むしろ構築できてしまうからこそ、「もしこのゲームを発売当時の雰囲気とともにプレイできたら」という「if」だけは構築しようがないということを、強く思い知らされるのだ。

 過去を見ればきりがないが、現在あらゆる「名作」と呼ばれる作品は、それが「名作」たる所以とともに私たちの前にすでに置かれてしまっている。もちろんそのような先人たちの積み重ねがあるからこそ次世代のクリエイティブが生まれるものだが、せっかくなら当時の時代を感じながら「名作」が誕生する瞬間に立ち会いたかったとも考えてしまう。

 「記憶を消してもう一度プレイしたいゲーム」とはよく言うが、『クロノ・トリガー』もそう呼ばれることが多い作品の一つだ。

 「もし自分がこの時代に生まれ直すことができたら」「もし何も知らないままこの作品と出会えていたら」「もしそういう歴史の中にいたら」、もっとこのゲームをもっと楽しめていたかもしれないのにーーと「夢」を見ずにはいられないのである。

 かつてラヴォスに滅ぼされかけた、あの星のように。


(画像=https://www.jp.square-enix.com/game/detail/chronotrigger/より)

■徳田要太
フリー(ほぼゲーム)ライター。『スマブラ』ではクロム使いで日課はカラオケ。NiziUのリク推し。Twitter

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