『すずめの戸締まり』は日本の『ノーカントリー』? 絶望を見据える新海誠監督の視線

『すずめの戸締まり』は『ノーカントリー』?

 『すずめの戸締まり』を観た。「受けて」「返す」という当たり前の繰り返しの果てにある「生きたい」という等身大の願いに涙した。間違いなく傑作だと思った。素晴らしかった。観終えた後、穏やかな満足感を胸に劇場を後にした。このような作品に出会える機会はなかなかない。翌日、『ノーカントリー』(2007年)を観た。傑作だった。素晴らしかった。そしてこう思った。『すずめの戸締まり』は『ノーカントリー』なのだと。あるいは、『ノーカントリー』こそが『すずめの戸締まり』なのだと。これはなにも、インターネットにありがちな「実質〇〇」といったくだらないユーモアの話ではない。両作には本質的に共通するものがあり、同時に違うからこそ浮き彫りになるものもある。というわけでこの記事では、『ノーカントリー』を通して『すずめの戸締まり』という珠玉の傑作について語りたい。

 『ノーカントリー』はコーエン兄弟監督のバイオレンス映画だ。第80回アカデミー賞作品賞をはじめ、数々の栄誉ある賞に輝いた世界的名作である。麻薬カルテルの金を偶然手に入れたベトナム帰還兵モス(ジョシュ・ブローリン)とそれを追う異常人格の殺し屋シガー(ハビエル・バルデム)。そんな彼らを捜査する保安官ベル(トミー・リー・ジョーンズ)。本作は、そんな3人の男たちによる旅路の物語だ。あらすじだけ見れば、『すずめの戸締まり』と『ノーカントリー』に共通点はない。すずめは麻薬カルテルの200万ドルを持ち逃げしたりしないし、それをハビエル・バルデムの面をした異常人格の殺し屋が屠殺用のエアガン片手に追ってくることもない。しかし、『すずめの戸締まり』は『ノーカントリー』である。なぜなら、両作には通底するテーマがあるからだ。それは「国の老年期」というテーマだ。

 『すずめの戸締まり』を観賞し、温かな満足感とともに限定入場者特典の「新海誠本」を読んだ人には言うまでもないことだろう。「新海誠本」で新海誠監督は「日本という国が老年期に差し掛かっているような感覚がある」と語っている。だからこそ終わってしまった土地を悼む物語を描こうと。『すずめの戸締まり』は終わりかけた国における死と、その背景にある絶望を描いている。一方『ノーカントリー』もそれは同じだ。『すずめの戸締まり』の背景に東日本大震災があるように、『ノーカントリー』の背景にはベトナム戦争がある。終戦を経て「古き良きタフなアメリカ」の神話が崩壊し、無秩序な犯罪が横行する。どちらも不条理な死に対する深い絶望が横たわっている。前者は東日本大震災という不条理に。後者は戦争と犯罪と老いという不条理に。漠然とした、されど深い絶望を見出している。では、『すずめの戸締り』は絶望の物語なのだろうか?

 話は変わるが、『ノーカントリー』に出てくる異常人格の殺し屋アントン・シガーの存在は特に視聴者に強いインパクトを残す。ぼんやりと捉えどころのない視線。のっぺりとした顔。ただ淡々と人を殺すその姿は、観る者に深い恐怖を与える。このアントン・シガーを演じたハビエル・バルデムはアカデミー賞助演男優賞に輝いた。まさに映画史に残るキャラクターだと言える。アントン・シガーは『ノーカントリー』における死そのものである。当初はただの異常人格の殺し屋として描かれていたシガーは、やがて殺しの過程が省略されるようになり、無秩序で不条理な死、あるいは犯罪という概念そのものとして描かれる。意外に思われるかもしれないが、アントン・シガーと『すずめの戸締まり』の主人公・岩戸鈴芽(原菜乃華)には不思議な共通点がある。それは「鍵」だ。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「作品評」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる