『すずめの戸締まり』はなぜ東日本大震災を描いたのか 『君の名は。』ブームの決算に

『すずめの戸締まり』にみた新海誠監督の変化

 20年ほど前、坂本龍一のピアノ・ソロ・コンサートを聴きにいった。当時の日本は、「三共リゲインEB錠」のCM曲「energy flow」が人気を集めた後。坂本氏はコンサートのなかで、これも自身の作曲である「サントリー ウイスキー 山崎」のCM曲「Yamazaki2002」を例に出して、なぜ同じように作った曲がヒットになったり、ならなかったりするのか不思議だということを語っていた。

 『君の名は。』(2016年)で、記録的な大ヒットを飛ばすことになった新海誠監督も、たしかに方向性を大きく変えたとはいえ、社会現象といえるほどの大反響を生み出すことになった結果について、公開当時、少なからず不可解さを覚えたのではないだろうか。大きな成功に喜ぶ一方で、『君の名は。』がここまで人気を集めるのならば、自身の過去作にもっと観客が入ってもよかったのではないかとも、おそらくは考えたはずだろう。

すずめの戸締まり

 日本の劇場アニメが、その後、同じような高校生の恋愛を題材とした企画に溢れ、それがまだまだ続いている状況を生むこととなった、『君の名は。』……そして『天気の子』(2019年)を経て、内容的に一連のシリーズとして公開された『すずめの戸締まり』は、そんな作り手すらコントロールすることが難しいヒットの流れに乗った「『君の名は。』現象」そのものに、新海監督が一つの解答を見出した作品であり、自身でそれをある意味で「戸締り」する意図を持って提出されているように、筆者には感じられた。

 新海監督はインタビューで、「49歳になった今の僕には、もう『君の名は。』のような映画は作れない。運命の赤い糸のような物語は、今の自分には当時ほどの強度では作ることが出来ません」と語っている。(※1)たしかに本作『すずめの戸締まり』は、新海監督の恋愛を題材とした過去作と比べても、恋愛要素への熱量が非常に低いように感じられる。これは、恋愛における苦しみが渦巻いて窒息しそうになるような『秒速5センチメートル』や、ある種ストーカーのように感じるほどの憧れの感情を描き出した『言の葉の庭』(2013年)を手がけてきた、アニメーション作家としての新海監督の作風としても、大きな変化といえるのではないだろうか。

すずめの戸締まり

 『君の名は。』や『天気の子』でも、「口噛み酒」へのフェティッシュ的な描写に代表されるような、男子学生の欲望や妄想が高じた先の、一種変態的な表現というのは、新海監督のもともとの持ち味といえる。本作においても、子ども用の椅子の姿に変えられてしまった男に女子高校生が腰を下ろす展開に性的な要素を見出すという、ある意味で江戸川乱歩の小説『人間椅子』を想起させる変態性が垣間見えるのはたしかだ。しかし、そんな部分すら、過去作に比べると淡白に感じられるのである。

 だが本作における、日本各地の災害を止めるべく、「閉じ師」として活動する青年・草太とともに、主人公の鈴芽(すずめ)が日本の活断層を縫うように北上していくという、「ロードムービー」風の成長物語は、これまでの2作品と同様、日本の神話的な世界観を利用したSFを設定の基にし、同時に天変地異による日本人の災害被害を題材にしたもので、むしろ新海監督はこちらの方に、『君の名は。』とのつながりを示してみせている。

すずめの戸締まり

 そして、本作ではついに地震災害を描くことを選択している。しかも今回は、「東日本大震災」という具体的なモチーフを、明らかにとり入れている。もともと『君の名は。』で描かれた災害もまた、おそらくは東日本大震災を暗示するものとして代替的に表現されたものであったことを考えると、いよいよ、それ自体を描くことにしたのかという驚きが、本作にはある。『君の名は。』は、なぜあそこまでヒットし、「国民的」とすらいえるようなアニメーション映画として受容されたのか。「東日本大震災」という観点で考えると、それをある程度まで説明できてしまう。

 約2万人の死者、行方不明者を出した東日本大震災。震災当時と、その後数年間は、その甚大な被害と犠牲者の数に、日本全体が沈鬱なムードに包まれた。筆者は当時、まさに本作に登場する宮城県で震災の被害に遭い、現地の多くの被害や復興を目にしている。震災の影響がなかった地方の人とその話題になったときは、腫れ物に触るような慎重さを相手に感じたものだ。そこには、災害に遭わなかったことに対する、一種の罪悪感のようなものがあったのではないか。筆者自身も、亡くなった人々に対して同じ思いを覚えている。

 そして、何の予備知識もなく、震災を乗り越えた映画館で『君の名は。』を鑑賞し、大規模災害が描かれているのを目にしたのだ。そのストーリーに投影されていたのは、「あの災害がなければよかった」という、日本人の多くに共通するだろう願望と、一種の罪悪感の発露だったように感じられた。もちろん責めるわけではないが、それは実際の被害者というよりは、日本人の総体としての“東日本大震災観”だったのではないか。

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