日本におけるゴダール受容の歴史と“映画の時代”の終焉 宇野維正×森直人×佐々木敦が語る

宇野維正×森直人×佐々木敦のゴダール鼎談

 セレクトされた良質な作品だけを配信するミニシアター系のサブスク【ザ・シネマメンバーズ】では、8月から10月にかけて、ジャン=リュック・ゴダールの60年代と80年代の作品をセレクトした全9作品が順次配信される。今回の配信を機に、映画・音楽ジャーナリストの宇野維正、映画ライターの森直人の2人に加え、ゴダールに造詣の深い佐々木敦をゲストに迎えて、ゴダールについてトークを展開。60年代のゴダール作品を中心に語った前編に続き、後編では、日本でのゴダール作品の受容のされ方の変化や、近年のゴダールについてまで話が及んだ。

【前編】宇野維正×森直人×佐々木敦が語り合う、60年代のジャン=リュック・ゴダール作品とその人柄

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「ゴダール語り」の歴史と変遷

勝手に逃げろ/人生
『勝手に逃げろ/人生』Sauve qui peut (la vie), un film de Jean-Luc Godard. ©1979 Gaumont (France) / T.S.R. / Saga Productions (Suisse).

――前回に続き今回は、少し先ですけど10月に配信される「PART 2」の5本――『中国女』(1967年)、『ウイークエンド』(1967年)、『勝手に逃げろ/人生』(1980年)、『パッション』(1982年)、『右側に気をつけろ』(1987年)について、いろいろと語っていきたいのですが、割と時期も幅広いですし、なかなか難しいですよね……。

森直人(以下、森):そうですね(笑)。ひと口では、なかなか語りづらいラインナップだと思いますけど、その前にひとついいですか? ジョン・カサヴェテスの回のときに宇野さんが、先行世代のシネフィルの方々の「圧」みたいなものが強過ぎて、なかなか素直にアクセスするのが難しかったっていう話をされていたじゃないですか。

――はいはい。

森:それで言ったら僕、ゴダールはその最たるものでしたね。少なくとも自分が若い頃は。

宇野維正(以下、宇野):まあ、そうだよね。

森:ゴダールって、映画それ自体は大好きだけど語るのはしんどい映画作家のベストワンみたいなところがあるじゃないですか(笑)。特に日本においては、根深いヨーロッパ・コンプレックスも絡んで、かなり独特な「ゴダール語り」の歴史や変遷があると思っていて。またゴダールのフィルモグラフィー自体も特殊な変容を見せていくわけですね。前回取り上げた60年代の初期ゴダールは、いかにも「時代の寵児」的な判りやすさがあったと思うんですけど、今回の『中国女』も含めて、そこから70年代にかけては政治的に尖鋭化していく。要は「映画を政治的に撮る」というテーゼも含めて、新左翼的な前衛作家になっちゃう。同時代の論客たちにも、まずは政治思想的にシリアスに受容されていたわけですよね。

中国女
『中国女』La Chinoise, un film de Jean-Luc Godard. ©1967 Gaumont / Ciné-Mag Bodard / Roissy Films / M. Nicolas Lebovici.GE - EURO INTERNATIONAL FILMS, S.p.A.

佐々木敦(以下、佐々木):そうだよね。1968年の「五月革命」のあと、ゴダールは「ジガ・ヴェルトフ集団」を結成して、自分の名前ではなく「ジガ・ヴェルトフ集団」名義で、政治的な映画を作り続けていて。だから、70年代のゴダールっていうのは、明らかに「政治の季節」に入っていたし、当時はやっぱり、そういう文脈の中で、受け止められていたんだと思う。

森:ただ、そのあと、『勝手に逃げろ/人生』から始まる80年代のゴダールっていうのは、当時日本でも流行っていたフランスの現代思想の文脈というか、憧れが支配的になる。

佐々木:まあ、ニューアカのブームと完全に同じ時期ですもんね。というか、僕は完全にその世代だけど(笑)。

森:まさしく佐々木さんの世代はコアゾーンに属するかと思います。具体的に言うと、日本では蓮實重彦さんが、映画の言説をリードするようになっていって、前回出た話で言うと、「デリケート」なゴダール受容の極地にまで育っていく。「蓮實チルドレン」なんて言葉もありましたけど、ゴダールについてめったなことを口走ると、蓮實先生の忠実なる子供たちにめちゃめちゃ怒られるんですよ。もし当時、SNSがあったら、そのへんの界隈は恐ろしいことになってたと思う。その抑圧が僕は端的に怖かったんですね(笑)。

佐々木:だから、ゴダールの受容と評価、日本におけるゴダールのプレゼンスは、やっぱり蓮實さんの存在が圧倒的に大きいんだよね。まあ、もう一方で、山田宏一さんっていう人もいるわけですけど、蓮實重彦的な言説との距離感と、ゴダールに対する距離感みたいなものが、その当時はすごくパラレルなものとしてあったじゃないですか。

宇野:もちろん、蓮實さんが権威化する以前からゴダールは日本でも受容されていたし、そこでは個別の言説や理解もあったんだろうけど、蓮實さんの影響力があまりにも強過ぎて、それ以降そこが基準になってしまったみたいなところは、確かにありますよね。

佐々木:そうなの。それがスタンダードになっちゃったから、それにのれるのかのれないかみたいな話になっていったというか、それにのれないとゴダールのことを好きって言いにくいような雰囲気があったんだよね。

宇野:でも、すごく広い意味で言ったら、佐々木さんだって、その流れの中から出てきたわけじゃないですか。

佐々木:いや、そんなことはないよ(笑)。

宇野:けど、一般的な見え方としては……佐々木さんが初の単著『映画的最前線 1999-1993』を出したのって、1993年とかですよね?

佐々木:そう。だからまあ、時代的な流れとしては、そうなるのかな? でも僕は、シネフィルの中では、完全な鬼っ子なので(笑)。

森:「シネフィルの鬼っ子」、まさしく言い得て妙かと(笑)。佐々木さんの登場は僕の中でも大きかったです。だから80年代は、ゴダール絶対主義的な「圧」がすごかったんですけど、90年代以降、それを柔軟化させていったのが、まさに佐々木敦さんなり、あるいは川勝正幸さんなりだったと僕は思っていて……。

佐々木:そうかもしれない。あと、小西康陽さんとか。

森:エディターである川勝さんは「元締め」だったので、一連の川勝ワークともおおいに絡んでいるわけですが、より象徴的に言うなら、ピチカート・ファイヴの存在は大きいですよね。いわゆる「渋谷系」の文脈です。コンテムポラリー・プロダクションの信藤三雄さんを筆頭に、当時の渋谷系のアートワークっていうのは、全部ゴダール的なるものの影響に覆われていたわけで。それは60年代、「流行作家」だったゴダールのかっこよさを、やや小ぶりのサイズで日本に復活させてくれたような嬉しさがあった。

佐々木:それこそ、8月配信作品の頃のゴダールというか、まさに『女は女である』とかの雰囲気だよね。

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森:だから、セルジュ・ゲンズブールとゴダールを一緒に語れるような感じの柔軟化というか、そういうものは、川勝さん、小西さん、信藤さんとか、のちに「渋谷系」で括られる仕事人の一派が成し遂げたことでもあって。で、一方に「シネフィルの鬼っ子」の佐々木さんがいた。それはやっぱり、ゴダールのソニマージュ(音+映像)という概念と実践に注目されて、「引用と編集の作家」を、サンプリングとかリミックスなどのDJ的な言葉で再定義されていったことのインパクトですね。個人的にも非常に「腑に落ちる」ものだった。当時僕は、美術評論家の椹木野衣さんが『シミュレーショニズム』などで語られていたことに、だいぶ隣接するような形で、佐々木さんが書かれたものを読んでいた気がするんですよね。

佐々木:そうですね、完全に。椹木さんとは、歳も近いから。

宇野:実際、佐々木さんは1994年に『ゴダール・レッスン――あるいは最後から2番目の映画』っていう、ゴダールの名前を冠した単著を出されたわけじゃないですか。そうやって、ゴダールの名前を冠した本を出すことに対して、当時の風当たりとか、そういうものってあったんですか?

佐々木:ああ、どうだったかな(笑)。『ゴダール・レッスン』は、ゴダールのことだけを書いた本じゃなかったから。そう、僕はその当時から、音楽と映画の両方の仕事をしていたんですよね。だから、音楽の概念を映画に当てはめたり、その逆をやってみたり、そういう感覚があって。で、その頃のゴダールの映画――今回のラインナップで言ったら『勝手に逃げろ/人生』とか『パッション』とか、そのあたりの作品っていうのは、すごく親和性が高かったんですよね。

パッション
『パッション』Une femme mariée, un film de Jean-Luc Godard. ©1964 Gaumont / Columbia Films.

――なるほど。

佐々木:だから、それはもう、同時代性でしかないというか。逆に言うと、その当時は、音楽のタームでゴダールを語る人が、ほとんどいなかったんですよ。それで、僕がちょっと目立ったように見えたっていう。でも、僕にとっては、むしろ普通というか、自然なことであって。実際、その後、そういうふうになっていったじゃないですか。ゴダールの映画は、画面だけを観ていてもわからないというか、その音楽や音響も含めて語るべきだっていう。

森:そうですよね。や、だからホント、佐々木さんの功績はものすごく大きいと思いますよ。

――確かに。

佐々木:何、今回は俺をアゲる回なの(笑)。

森:(笑)。それで思い出しましたけど、僕がゴダールのことをガチッと意識したのは、多分岡崎京子さんの漫画『pink』なんですよね。

佐々木:ああ、なるほどね。

森:『女と男のいる舗道』を模した扉絵があって、ちゃんとサンプリングソースのクレジットも入ってる(笑)。あれが出たのが1989年だから……。

宇野:実際岡崎さんはその当時、ゴダールの映画のパンフレットとかにも、普通に寄稿していたもんね。

森:そうなんです。めちゃめちゃ寄稿していたんですよ。で、編集担当のクレジットを見ると、川勝さんの名前があったり。

宇野:シネフィル的な受容とはまた違う、ポップカルチャーとしてのゴダール受容という意味では、まさに岡崎さんがその伝道師のひとりだったのは間違いないですよ。その周辺のクリエイターも含めて。当時20歳前後だった自分は、それらとシネフィル的磁場の両方と等距離で接していた。

佐々木:っていうのは、やっぱり……80年代の半ばぐらいに、日本にバブルがくるじゃないですか。で、それ以前も、もちろんヌーヴェルヴァーグの影響とか、そういうコンテクストのゴダール受容はあったんだけど、その頃っていうのは、やっぱりちょっとアンダーグラウンドな感じだったりとか、反体制的なイメージっていうのが、多分わかちがたくあって……まあ、70年代前半くらいまでは、日本もアングラ文化とか政治の時代の残響が残ってたから。ただ、80年代に、日本がすごい好況になって、みんなお金も時間もあるから、いろんなものにスポットが当たって……要するに、若者たちが、文化にお金を使えるようになってきたんだよね。

――なるほど。

佐々木:で、そのあたりから――僕は「センス・エリート」って呼んでいるんですけど、要するに、すごく感覚が優れていて、新しいものに何でも飛びついて、もう何でも知っているような若者たちが続々と出てきて、それこそのちの渋谷系とかにも繋がるような「センス・エリーティズム」みたいなものが、80年代の終わり頃から日本で生まれてきて。その申し子みたいな人たちのひとりが、たとえば岡崎京子さんだったり、あるいはフリッパーズ・ギターの2人だったりしたっていう。そういう中で、ゴダールという存在が、ひとつの記号みたいなものとして、非常に大きな役割を果たした部分は、きっとあったんだと思う。

森:ある意味、すごく豊かな時代だったと思いますよ。同時にいけ好かないマウント合戦も多かったと記憶していますけど(笑)、もし「センス・エリート」の時代が日本になかったら、僕、今の仕事なんか絶対してなかっただろうなと。

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