『呪術廻戦 0』はテレビシリーズの劇場版にとどまらない タイトルに暗示された気概

『呪術廻戦 0』を映画たらしめる所以

 『劇場版 呪術廻戦 0』の興業収入が、2021年12月24日の公開から43日目となる2月4日で、大台となる100億円を突破した。

 異例づくしの『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』の404億円突破以降、感覚が麻痺してきた感があるが、公開から45日、2月6日時点での興行収入104億5632万2400円は、日本歴代で34位、『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』を抜き『インデペンデンス・デイ』に続く偉業だ。

 こうした大ヒットの理由に、先行する原作漫画およびテレビシリーズ『呪術廻戦』のヒットがあることは間違いない。

 しかし自分は、何よりも本作『劇場版 呪術廻戦 0』の一作の映画としての出来栄えをあげたい。『呪術廻戦』本編の前日譚にあたる独立した物語という内容面もさることながら、テレビアニメの劇場版という枠にとどまらない“映画”としての品格を備えているように感じた。

 端的に言えば、自分が感じたその“映画”としての品格とは、鑑賞者を信頼して、過剰な説明を避けて画で語ろうとする姿勢であり、それを為す多くの示唆に富んだ演出だ。

劇場版 呪術廻戦 0

 実際、監督の朴性厚は、パンフレットや雑誌の取材で、本作の制作にあたりテレビシリーズとの差異を出すために、画面アスペクト比を2.35:1のシネマスコープに変更して(テレビシリーズは16:9)画面の情報量を増やし、アニメにおける品格を下支えする背景美術を強化した、という旨の発言をしている。

 そうした本作を“映画”にしようという制作陣の思いは、本編で最初のオリジナルパート、乙骨憂太が宿舎から呪術高専へと向かうオープニングで、すでに感じられる。

 「Greatest Strength」のゴスペルを思わせる静謐な女性コーラスに誘われて、オープニングは始まる。

 直前のアバンで、中学時代の乙骨と特級過呪怨霊・折本里香が起こした陰惨な事件と、呪術高専総監部で乙骨の身柄をめぐる上層部と五条悟とのやり取りという情報量の濃いパートを、ほぼ室内カットのみで一気呵成に見せた後、春の緑の木々と光に包まれた宿舎の外観、目覚まし時計が鳴り、ひとりの部屋で起きる乙骨を描くことで、アバンとは対照的な生命力と解放感漂う世界に連れられて来られて、新しい生活を始めたことを示す。

 画面のトーンも、それまでの闇と血を連想させる黒と赤を基調としたものから、光と緑や木など自然をイメージさせる色に一転し、乙骨同様アバンで高まった圧迫感と緊張感から解放された鑑賞者が、自然と彼に感情移入するような演出がなされている。

 続いて乙骨が朝食を取る姿が描かれる。食事は生きるための活力を得る行為だ。しかし、乙骨の表情は優れない。朝日が差す和室の影の部分で乙骨が食事を取っている姿に、平穏なその生活への居心地の悪さを感じることもできるだろう。

 こうした影と光の演出は、続く廊下を歩くシーンに顕著だ。

 宿舎から「外」へとつながる玄関に行くため、乙骨はその身を窓からの光と壁にさえぎられた影の中に交互に置きながら、長い廊下を歩いていく。これはアバンで「もう誰も傷つけたくありません」「だから、もう外には出ません」と言っていた彼が、自分の意志で闇から光の世界を歩きだそうともがいていることの暗喩だ。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「映画シーン分析」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる