70年代を中心としたサスペンス映画が現代に蘇る 『ベケット』が映し出す映画史の“記憶”

『ベケット』が映し出す映画史の“記憶”

 しかし、そんな“ヴィンテージ”の世界が、何を意図して表現されたものなのかが、最も大事な部分であることは言うまでもない。ただ古い映像世界を表現したとして、それがただ監督のフェティッシュにとどまっているのならば、それほど興奮するようなことではないだろう。

 ニコラス・ローグ監督の『赤い影』(1973年)や、ロマン・ポランスキー監督の『テナント/恐怖を借りた男』(1976年)、ブライアン・デ・パルマ監督の『フューリー』(1978年)、『バイオレント・サタデー』(1983年)……このような優れた過去のサスペンス・スリラーに共通しているものとは何だろうか。それは、何らかの強い印象を観客に与えようとする映像や演出の指向性である。これらの作品を見返すことで驚くのは、粘着的といえるほどに才気をほとばしらせようとする監督の意志の存在であり、それはまた、ルカ・グァダニーノ作品にも強く反映した姿勢であるように感じられる。

(c)Yannis Drakoulidis/NETFLIX

 これは近年の映画において、とくに希薄になっている部分なのではないか。これらの年代の映画や、この時代に活躍したクリエイターの後の作品を観ていると、一見無駄と思えるようなカットや、ぎょっとさせるような異質なイメージが、ふいに飛び出してくることがある。グァダニーノ監督がインスピレーションを得た『サスペリア』(1977年)は、全編でそのような意図がみなぎった代表的な作品であるだろう。しかしそのような、物語が要請する以上の意味合いを持った演出は、現代では陳腐でひとりよがりなものと判断され、洗練された演出ではないと判断されてしまうことも少なくない。

 それは、とくにこの10数年間にわたり、映画業界において“アート性”が忌避される、時代の特徴ともなっている。グァダニーノ監督をはじめ、ニコラス・ウィンディング・レフン、クリストファー・マッカリー、アンドリュー・ドミニク監督など、そんな現在の状況に自覚的な才能が、逆に古い時代の映画の表現にこだわるのは、その揺り戻しであるように感じられる。それは一部の観客も同様で、作家性の香りを受け継いだ90年代のミニシアターブームを思い起こさせる映画を送り出す「A24」が絶大な人気を得る要因ともなっている。つまり時代の底流では、強烈な作家性が常に求められてもいたのである。

 本作が、過去の時代の表現を追い求めるのは、この時代に代表される揺るがない“作家性”への信仰という、現在では半ば亡霊のようなものを蘇らせようとする、一種の儀式なのではないか。それはさらに、映画史に燦然と輝く、フェデリコ・フェリーニ、ルキノ・ヴィスコンティ、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督などの驚くべき才能がイタリアで乱立し、作家主義が至上のものとなった、50年代から70年代にかけての奇跡の時代への憧れでもある。70年代における世界各地の映画における様々な才能とは、その子どもたちであるともいえるのだ。

(c)Yannis Drakoulidis/NETFLIX

 そんな奇跡の時代の優れた映画群の多くは、もはや“映画批評”という枠ではすでに語ることのできないものである。『フェリーニのローマ』 (1972年)、『ルートヴィヒ』(1972年)、『テオレマ』(1968年)や『豚小屋』(1969年)などの珠玉の映画は、文学、美術、音楽、建築など、様々な文化の知識や粋を極めることで考察することが可能となる、奥深い魅惑の領域であるといえる。それは、大衆娯楽であった映画が、総合的なアートや文化遺産として、最も完成度を高めた時期ではなかったか。熟成したブランデーやウィスキーのように、知識を備え感覚を研ぎ澄まさなければ、その真価を理解し味わうことは難しい。

 そんな時代の映画に対する後進の憧れが強く反映されている本作を思うと、現在の多くのサスペンス映画の巧拙を判断するのと同じ常識的な“映画批評”の枠で、本作をとらえようとする行為は、ある意味で無謀であるといえる。ジョン・デヴィッド・ワシントンの表情に迫っていく本作のラストシーンの演出を、感動をもって味わうには、観る側がチャンネルを切り替える必要があるのである。

(c)Yannis Drakoulidis/NETFLIX

 そういう目で本作を観ると、サスペンスやスリラーとしての興奮や面白さというよりも、主人公の個人としての感情の流れや、登場人物たちの思想の違いなど、主に人間性の部分がフォーカスされていることが分かる。人間は、自らの体験を断片的に記憶し、そこではアクション映画のようなテンポでスリルを強調する場面ばかりが強調されているわけではない。

 本作が主人公の移動シーンを、ある種粘着的に長く描写しているのは、人間的な体験そのものを映像によって引き出そうとしているからである。襲撃から逃げる主人公が感じる恐怖もまた、ただのアクションとしてのスリルではなく、人生の真理に触れるような根源的な恐怖と接続されている趣がある。“人間や人生を描く”、その強烈な意志もまた、現在の創作物全般で比較的希薄になりつつある価値観であるといえる。

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