『フリー・ガイ』の内容は意外に深い? 哲学的な切り口から読み解く

『フリー・ガイ』を哲学的な切り口から考察

 ところで、ゲーム『グランド・セフト・オートV』をプレイしていると、たまに奇妙な感覚を覚えるときがある。日常の生活を送ることのできるこのゲームでは、自分が操作するキャラクターが、ゲームの世界の中でTVや映画を観たり、アーケードゲームをプレイすることもできる。われわれはそのとき、プレイヤーの視点を借りて、ゲームの中で、さらにゲームの中の架空の世界に意識を向けることができる。このような“劇中劇”を見せる趣向は、われわれに一つの不安を投げかけている。

 例えば、『グランド・セフト・オートV』の登場キャラクターが、もし『グランド・セフト・オートV』のようなリアルなゲームを、ゲームの世界の中でプレイできたとしたら、どうだろうか。その中のキャラクターもまた、ゲームの中のゲームの世界で、ゲームをプレイすることが可能なはずである。そして、ゲームの中のゲームの中のゲームの世界でも、ゲームをすることができることになる。この入れ子構造は、どこまでも無限に存在し得る。

 そこまで考えると、果たしてゲームをしている自分は、本当に現実の世界でゲームをしているのだろうかという疑問が芽生えてこないだろうか。ゲームをプレイしていると思っている自分は、実際にはゲームの中の人物であり、“ガイ”がそうであるように、ゲームの中を現実だと思い込まされながら、ゲームをプレイしているのではないのか。

 この考えは、荒唐無稽な思いつきだと思う人も少なくないだろうが、このような仮説を、真面目に提唱している哲学者が存在する。オックスフォード大学のニック・ボストロム教授である。彼は「われわれ人類が、高度な知能を持った第三者が作り出した“シミュレーテッド・リアリティ”の中で生きているのではないか」……つまり世界はゲームのようなものの中にあるという考え方を発表しているのである。もしその考えが事実であれば、この世界の創造主たる“神”は、プログラマーのようなものとして実在するのかもしれない。そして、“ガイ”がゲームの世界から抜け出すことができないのと同様、われわれもまた、この世界を作り出した者の世界へ行くことは不可能ということになるだろう。

 であれば、そもそもそんなことを考えること自体が徒労に過ぎないのではないかという気もする。われわれが本当に“シミュレーテッド・リアリティ”の中に生きていたとして、それを一体、どう理解し、処理したら良いのだろうか。本作『フリー・ガイ』は驚くべきことに、このような哲学的な問いに、一つの答えを用意している。

 本作は、「この世界はゲームの世界であり、現実ではない」という事実を知ってしまった“ガイ”の心の動きを描いている。天地がひっくり返るような衝撃を受け、自分のやること全てに意義を見出せなくなった彼は、生きる気力を失うことになる。しかし“ガイ”は、リル・レル・ハウリーが演じる、同僚の“バディ(相棒)”から、そんな絶望を乗り越える言葉を受け取ることになる。それは、「この世界がニセモノだとしても、いまこの瞬間に俺たちがここに存在することは紛れもなく本物なんじゃないか」という意味のメッセージだ。

 16世紀の哲学者ルネ・デカルトは、“シミュレーテッド・リアリティ”という言葉ができる、はるか以前より、「この世界が現実ではないのではないか」「自分は存在しないのではないか」という疑問を持っていた。それは、“あらゆるものを疑う”という、デカルトの哲学的な懐疑の姿勢より生じた問いである。それはまた、紀元前の中国の思想家・荘子による「胡蝶の夢」と呼ばれる説話にも繋がる。「胡蝶の夢」とは、蝶になった夢を見て目覚めたときに、「いまの自分は蝶が見ている夢なのではないか」という疑念を持つといった内容だ。これらは、ビデオゲームがない時代の「この世界はゲームなんじゃないか」問題といえるのではないだろうか。

 デカルトは、この問題に「コギト・エルゴ・スム(われ思う、故にわれ在り)」という、一つの解答を見出す。それは、「この世界が現実ではないかもしれない」という懐疑に至った自分の思考そのものは、疑いようもなく存在するものであり、それこそが自分が存在する証明になっているという考え方である。

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