“選ばれなかった者”の本音の叫び 今泉力哉の持ち味活かされた『街の上で』の重層的な構造

『街の上で』の重層的な構造を読み解く

 『街の上で』の物語は、一見、複数のキャラクターの日常の物語がとりとめなく続いていくようにも感じられるが、そこには明確な要素が共通して存在している。本作の登場人物たちの、仕事や恋愛におけるそれぞれの関係性は、その瞬間瞬間で、“選ぶ側”と“選ばれる側”に分かれるのだ。そして最終的に、どうしても“選ばれなかった者”が生み出されることになる。だから、古書店の店員が劇中で見せる怒りは、選ばれてこなかった自分自身の境遇への怒りであり、亡くなった古書店の主人が忘れ去られていくことへの怒りであり、ある意味では全ての“選ばれなかった者”の本音の叫びでもある。本作が「ショートコント・下北沢」の連続として表現されながら、散漫な印象を残さないのは、このテーマが各エピソードに貫かれているからである。

 しかしなぜ、ある種の人々はクリエイティブな仕事にこだわるのか。それは、一つには何らかのかたちで自分の存在を、世界に、時代に刻みつけたいという願望があるからではないのか。劇中のカフェで、漫画や外国映画についての話題が登場するように、文化は時代や地理的な制約を超えて、人々の心に残り続ける。カフェのマスターは、そんな文化の力を羨ましく感じて、思わずそれを口に出す。店や人の顔ぶれは、街の上で時代とともに絶えず変遷し、消えていく運命なのだ。

 だが、そこに人がただ生活したり存在したこと自体にも、何らかの意味があるのではないか。本作の冒頭のあるカットが象徴しているように、そして、冷蔵庫の奥に忘れられて存在する食べ物が象徴するように、この世で陽の目を見なかったもの、時代に爪痕を残さなかったものに、本作は目を向けようとする。そして、大多数の人々が目をくれないようなものだからこそ、それはほんの一部の人の心を救う存在になる可能性があるのではないか。逆にいえば、ある種の人間は、自分自身の存在価値をそのように信じるからこそ生きていけるのではないだろうか。

 そんな“願い”は、まさに自主映画や作家性の強い創作物などにおける、大多数に支持されようとする表現を選ばないクリエイターの、ものを作り続ける動機にも似ているのかもしれない。そしてそれは、本作『街の上で』そのものにも言えることなのではないか。この映画には、そんな重層的な構造が存在していると思えるのだ。

 とはいえ、どこかに存在する誰かを救おうとする本作がいま、けして少なくない観客によって支持を受けているのである。それは社会の片隅に存在するはずの、本作に救われる人たちの数が、意外に多かったからなのかもしれない。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト

■公開情報
『街の上で』
新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ渋⾕ほかにて公開中
出演:若葉竜也、穂志もえか、古川琴音、萩原みのり、中田青渚、成田凌(友情出演)ほか
監督:今泉力哉
脚本:今泉力哉 、大橋裕之
音楽:入江陽
主題歌:ラッキーオールドサン「街の人」(NEW FOLK / Mastard Records)
配給:『街の上で』フィルムパートナーズ
配給協力:SPOTTED PRODUCTIONS
(c)『街の上で』フィルムパートナーズ
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