小津安二郎的“明るさ”と“影の美学”の対比 20世紀から21世紀の“画面”の映画史

20世紀から21世紀の“画面”の映画史

シオラン思想とメランコリー

 とはいえ、21世紀の「明るい画面」と「暗い画面」の性質が、完全にまっぷたつに分かれるというものでもない。たとえば連載第3回(参照:『ヒプノシスマイク』の“明るい画面”はメランコリーを象徴? 現代アニメ文化における高さ=超越性の喪失)では、『ヒプアニ』の深みのないフラットな画面から、岩内章太郎の現代実在論をめぐる議論を参照しつつ、ぼくは「メランコリー」の時代感覚を見出してみたが、これなどはどちらかといえば本来は、「明るさ」というよりは「暗さ」に通じるセンスだろう。たとえば、「筋金入りの新反動主義者からすれば民主主義とは、たんに絶望的なものであるわけではなく、それ自体が絶望そのものであることになる。[…]そういった反政治的なものを駆動する地下水脈は、目に見えてホッブズ主義的なものであり、それ自体として一貫性をもった暗黒の啓蒙とでもいえるものだ」(『暗黒の啓蒙書』五井健太郎訳、講談社、26頁)とランドが記すように、「絶望」の感覚が明るさ=啓蒙のなかにも蔓延している状況に気づかされるのが現代なのだというべきだろう。

 そういえば、第3回でもその名前に触れたルーマニアの特異な思想家エミール・シオランのペシミズム思想が――いわゆる「反出生主義」との関係も含め――近年、にわかに注目を集めていることとも、それは無関係ではないに相違ない。シオランの思想にかんして知るには、さしあたり大谷崇『生まれてきたことが苦しいあなたに――最強のペシミスト・シオランの思想』(星海社新書)がオススメだが、いまシオランのアフォリズムを読むとき、確かにそこには現代人のメランコリーの核心が表れているような気がする。曰く、「今朝、目を覚ますなり第一に考えたこと。すなわち、人間がかつて得たもっとも深い直観は、すべては気晴らしという直観であるということ。[…]あらゆる約束、あらゆる幻想にまさるもの、それは結局のところ、それが何になる? という平凡な、それでいて恐ろしいリフレインだ。この、それが何になる? は、この世の真理であり、端的に真理そのものだ」(『カイエ:1957-1972』金井裕訳、法政大学出版局、656頁、原文の傍点は削除)。「結局のところ、それが何になる?」――このシオランの吐露は、たとえば手持ち無沙汰でなんとなくNetflixを寝転がりながら観る現代の「Z世代」の若者の「chill out」なリアリティの一端(何をしたいわけでもないが、何もしたくないわけでもない……)を代弁しているかのようだ。そういえば、庵野秀明総監督の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(2021年)において、式波・アスカ・ラングレー(声:宮村優子)は、ニアサードインパクトを起こしたトラウマから気力をなくした碇シンジ(声:緒方恵美)に対していみじくも、彼は「生きたくもないし、死にたくもない」のだと口にする。この意味で、シンジはシオラン的なうつ、現代のメランコリーを体現しているのだといってよい(したがってぼくは、今回の新作の物語前半のシンジの姿を、90年代の旧『エヴァ』シンジのセカイ系/引きこもり的主体の反復と捉える解釈は的を射ていないと思う)。

 あるいは、シオランは、別のところで「人類はいまや絶滅しようとしている。これが、こんにちまで私の抱いてきた確信だ。ちかごろになって、私は考えを変えた。人類は絶滅すべきである」(『告白と呪詛』出口裕弘訳、紀伊國屋書店、190頁、原文の傍点は削除)とも書いているが、この「絶滅」の問題もまた、すでにぼくが「人新世」の問題とも絡めてあちこちで論じているように、ポストヒューマンな世界観に通じるものだろう。

「明るい画面」の「暗さ」――「空洞化」するデジタル画面

 ともあれこのように、現代映画の画面を二分する「明るさ」と「暗さ」はこの時代特有の本質を共有していたりもする。

 確かに、このような「明るい画面」特有の「暗さ」=「見えにくさ」という逆説は、ほかのところでも見られるように思われる。ここ数年、ぼくが参照することの多いアニメーション研究者の土居伸彰のいう現代アニメーションに見られる「空洞化」の議論は、このこととも関係しているはずだ。土居は、21世紀に台頭してきている新世代のアニメーションの紡ぐ物語や表現は、かつての20世紀に作られていた、ディズニーやスタジオジブリなどの伝統的なアニメーションと比較し、大きく変化してきている要素があると指摘する。

かつては一義的な意味しか持たなかったアニメーションの記号が、何も意味を持たない記号になり、それゆえにあらゆる意味付けに対応するようになる状況が目立ちはじめてきたのだ。[…]

 こういった作品[註:かつての20世紀に作られていたアニメーション]の作り方の背後には間違いなく、世界はこのようにあるべきだというある種の理想が潜んでいる。作り手自身に、強い意志で守ろうと考える思想があるのだ。[…]フレデリック・バックやポール・グリモー、そしてそれらの作家と思想を共有する高畑勲の作品がたとえばそうだ。[…]

 それは、価値判断や道徳を伴っていて、具体的な現実とつながっていて、それらを理想的なものに変えんとする意志がある。

 一方、『オー、ウィリー』[註:21世紀的な新しいアニメーション]の映像は、おそらく何も意味していないし、何の理想も隠していない。[…]

 それは、フレームの「上」での情報量の過剰を起こす。認知は豊かに蠢く表面でストップし、何が何を意味しているということを考える余裕を失わせる。(『21世紀のアニメーションがわかる本』フィルムアート社、146~151頁、原文にある傍点は削除した)

 まず、21世紀のアニメーションは20世紀と較べて、はっきりした理想や思想を掲げる作品がなくなってきていると土居はいう。そしてその傾向は、「画面」の印象にもはっきりと表れている。たとえば、ここで土居が例に出す細かい毛の一本一本の微細な動きまでハイビジョン映像で見せてしまうウェス・アンダーソンの人形アニメーションをはじめ、典型的には、高精細なフォトリアル表現を全面に打ち出す新海や京アニのインスタ映え的画面がそうだ。それら解像度の極限にまで上がったデジタル映像は、まさにぼくたち人間=観客にとって「情報量の過剰」(認知限界)を起こすがゆえに、逆説的にも「何が何を意味している」という「明るい」「見えやすさ」から遠ざかっていくというわけだ。つまりこれが、「明るい画面の暗さ=見えにくさ」とでもいうべきものである。

実写映画における空洞化した「暗い画面」

 とはいえ、ここで土居が現代アニメーションについて述べた事態は、じつは実写映画の世界にもはっきりとあてはまる。しかもそれは、「暗い画面」を持った現代映画にもあてはまるものだ。

 事実、土居自身もまた、ぼくとの対談(「2016年の地殻変動」、同人誌『クライテリア』第2号所収)のなかで、そのことを認めている。たとえばすでに別の原稿(「ポスト・シネマ・クリティーク」第20回、『ゲンロンβ18』所収)でも書いたことだけれども、クリストファー・ノーラン監督の戦争映画『ダンケルク』(2017年)などはそうだろう。それから、同じ戦争映画のサム・メンデス監督の『1917 命をかけた伝令』(2019年)。そして、フー・ボー監督の『象は静かに座っている』(2018年)など。

『1917 命をかけた伝令』(c) 2019 Universal Pictures and Storyteller Distribution Co., LLC. All Rights Reserved.

 先ほどの土居は、21世紀のアニメーションに起こっている変化として、「画面の空洞化」とともに、それとも通じる要素として、「私から私たちへ」というキーワードを出している。彼によれば、20世紀のアニメーションがアイデンティティのはっきりした「私」を描いていたとすれば、21世紀のアニメーションは、「「私」は深みを欠いて空洞化し、棒線画化していき、個性を失って、他の人と同じようになっていく」、「「私」よりも「私たち」と言うのがふさわしい」(『21世紀のアニメーションがわかる本』、106頁)ものに姿を変えているという。ひるがえって見た場合、『ダンケルク』や『1917』のイギリス陸軍の若い兵士たちも、『象は静かに座っている』の主人公たちも、確かに「深みを欠いて空洞化し、棒線画化していき、個性を失って、他の人と同じようになっていく」、集合的で匿名的な「私たち」と呼ぶにふさわしい存在として描き出されている。しかもそこで重要なのが、それらの映画の画面がやはりいずれも暗くて見えにくいということだ。『ダンケルク』の掃海艇や漁船の内部に無数の兵士たちがひしめき合うシーンや、『1917』の夜の闇のなかを煌々とした炎に照らされながら主人公の兵士が走るシーンはその点で印象深い。また、『象は静かに座っている』は、早朝を選んで撮影されたというつねに薄明の灰色がかった淡い色調の風景のなかで、極端に浅い被写界深度のカメラによって手前の人物以外の人間がすべて淡く暗く背景に溶かし込まれる独特の演出が凝らされている。その結果、本作でもやはり画面は過度に空洞化/匿名化した「暗さ」をまとうことになる。

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