『麒麟がくる』が指し示したひとつの希望 壮絶な“死に様”を描いた/描かなかった意図

『麒麟がくる』が指し示したひとつの希望

第4章「本能寺編」

 このように、『麒麟がくる』の物語は、太平の世に現れるという生き物「麒麟」を呼び込む者を、光秀がその半生を通して探し求めてゆく話であると同時に、さまざまな「死」によって光秀のその後の考えや行動が決定づけられていく、運命の物語であったとも言えるだろう。そして迎えた、本作のクライマックスでもある「本能寺の変」。

 周知の通り光秀は、遂に自ら行動を起こすことになる。歴代の大河ドラマをはじめ、これまで幾度も描かれてきた「本能寺の変」を、『麒麟がくる』はどのように描いたのか。主君と家臣と言うよりも、一度は同じ夢を抱いた者同士、あるいは兄と弟、さらには父と子とも形容された関係性が崩れたことを知った信長が、刮目した瞳を潤ませながら高らかに言い放った「十兵衛か……であれば、是非も無し!」という言葉。その愛憎入り混じった不敵な表情と毅然とした立ち居振る舞いは、是非ともその目で確認してもらいたい。染谷将太の迫真の演技も相まって、大河ドラマ史上に残る名シーンになったと個人的には思うから。

 しかしながら、そこで多くの視聴者が注目したのは、光秀のその後――「本能寺の変」から一週間を待たず、羽柴秀吉(佐々木蔵之介)と対決し、そして破れ去ることになる光秀の「結末」であった。これまで数々の「無念の死」を目の当たりにしながら、やがては自らも「修羅」となり、主君・信長に引導を渡すことになった光秀は、どのような「最期」を――もっと言うならば、どれほどまでに壮絶な「最期」を遂げるのだろうか。

 冒頭に書いたように、結論から言うと、その「最期」は明確な形で描かれなかった。それは果たして、何を意味しているのだろうか。否、むしろその「結末」こそが、本作が打ち放った最後のメッセージだったのではないだろうか。

 不名誉な「生」よりも名誉ある「死」を尊ぶ戦国時代劇の世界にあって、その「最期」を明確な形で描き出さないこと。それは、無意識のうちに「死」を美化し、礼賛する傾向がある歴史観(とりわけ、明治以降に作られた歴史観)に対する、ひとつの回答だったのかもしれない。それ以前に、そもそも「明智十兵衛光秀」という人物を、これまでのような「逆臣」として描くのではなく、太平の世を望んで「麒麟」を追い求める、ある種の「理想主義者」として描くことが、本作の根幹にあるテーマだったのだから。

 その最後に、壮絶な「死に様」は必要ないのだろう。理想に殉じて死を選びとることは、必ずしも美しいことではないのだ。むしろ、本作が最後に打ち放ったのは、「生きろ」という切実な願いでありメッセージだったのではないだろうか。それは、奇しくもその序盤から、この「コロナ禍」と並行して走ることになり、その中で幕を閉じることになった『麒麟がくる』の物語が指し示した、ひとつの「希望」のように思えてならない。その「結末」は、きっと観る者の心の中にあるのだろう。想像の翼を広げながら、歴史の事実という点と点をつないでいくことの面白さ。そう、それこそが、戦国時代劇の真の醍醐味なのだから。

■麦倉正樹
ライター/インタビュアー/編集者。「リアルサウンド」「smart」「サイゾー」「AERA」「CINRA.NET」ほかで、映画、音楽、その他に関するインタビュー/コラム/対談記事を執筆。Twtter

■放送情報
大河ドラマ『麒麟がくる』総集編
2月23日(火・祝)放送

NHK総合
(1)13:05〜14:00 第1章「美濃編」
(2)14:00〜15:00 第2章「上洛編」
(3)15:05〜16:20 第3章「新幕府編」
(4)16:20〜17:35 第4章「本能寺編」

BS4K
(1)13:05〜14:00 第1章「美濃編」
(2)14:00〜15:00 第2章「上洛編」
(3)15:00〜16:15 第3章「新幕府編」
(4)16:15〜17:30 第4章「本能寺編」

主演:長谷川博己
作:池端俊策
語り:市川海老蔵
音楽:ジョン・グラム
制作統括:落合将、藤並英樹
プロデューサー:中野亮平
演出:大原拓、一色隆司、佐々木善春、深川貴志
写真提供=NHK
公式サイト:https://www.nhk.or.jp/kirin/
公式Twitter:@nhk_kirin

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