キム・ギドク監督の死から考えなければいけないこと これからの映画界をより良いものにするために

 しかし、そんな輝かしいキム・ギドク監督の評価が一変する事態が起こる。ハリウッドの大物映画プロデューサーだったハーヴェイ・ワインスタインの、度重なるセクハラや性的暴行が明らかになったのと同年、キム・ギドク監督も映画製作において、出演者に対する暴力やセクハラ行為で訴えられ、敗訴することになったのだ。

 それだけでは終わらず、さらに他にも2人の女優が性的暴行を受けたことを告発。キム・ギドク監督は、逆に名誉毀損だとして告訴したものの、そこでも敗訴することになった。この後、監督の行状が周囲の映画人によって暴露され、女優や女性スタッフに対して常習的に性的暴行やセクハラ行為をしていた疑いも出ている。

 敗訴した件だけでも致命的だ。監督という立場を利用して無理やりに女性に迫ったり暴行を繰り返すような行為をしていたとなれば、法的な問題はもちろん、道義的にも卑劣きわまりない。その後の映画製作や興行、賞の参加も困難なものとなるのは必定だったといえる。キム・ギドクの死去は、そんな状況が継続していたなかでのことだった。

 ここで、キム・ギドク監督作を今後どのようにとらえればよいかという問題が出てくる。作品は作品として、作り手と分けて考えればよいのか。それとも作品も一緒に断罪するべきなのか。そして、このような事態が起こった場合、作品の芸術的価値も失われてしまうのか。その答えは、映画の枠を超えた芸術論の領域に入るため、長い議論や考察が必要になってくるだろう。いま、その議論を始める前に、考えなくてはならないことは無数にある。

 ワインスタインの事件が明るみになったことが大きな契機となった、#MeToo運動の前後の時期には、ベルナルド・ベルトルッチ、ラース・フォン・トリアー、ウディ・アレン、松江哲明など、映画監督の過去の行動も取り沙汰され、強い批判を受ける事態となったように、このような問題はキム・ギドク監督だけの問題ではない。これら以外にも、ケヴィン・スペイシーやアンセル・エルゴートなどの俳優や、アップリンクなどの映画館などなど、映画界だけでさまざまなパワハラ、セクハラ、性暴力行為が存在していることが分かってきている。

 このようなケースを掘り出すと、映画業界、芸能界、ひいては社会全体に上下関係や社会的な立場を利用したハラスメントや暴力が蔓延していることを指摘せざるを得ない。この事実をもって、キム・ギドク監督を擁護する声もあるが、それは筋道が逆転しているのではないだろうか。社会の至るところにそのような暴力が存在するのであれば、それら膨大なケースを一つひとつ時間をかけて検証し、その内容に従って被害者を救済し、加害者に社会的な責任をとらせればよいだけではないか。

 「表現の自由」を盾にした擁護意見もある。暴力的な指導によって、芸術のために出演者の精神を追い込むことが熱意だとされる固定観念は、いまだに存在する。しかし、それは映画製作の役割における一部の人間の“自由”に他ならない。そのような自由を優先させるために、誰かの自由を著しく制限するようなことがあれば、それは「表現の自由」といえるだろうか。そして、そんなことをしてまで映画や芸術を作る権利や意義が、果たしてあるのだろうか。芸術の名を借りたとしても、表現をする人間自体は個人に過ぎないのである。

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