宮台真司の『TENET テネット』評(後編):ノーランは不可解で根拠のない倫理に納得して描いている

宮台真司の『TENET』評(後編)

『TENET』は果たして“ハッピーエンド”か

ダース:例えば、コロナ禍で大気汚染が非常に下がった、ということが明らかになりましたね。

宮台:気候変動枠組条約のパリ協定(2015年)では、年間7%以上の大気中二酸化炭素を削減しないと、気温上昇を2度以内に抑えられないとしていますが、コロナ禍でやすやす達成されました。もしかすると新型コロナは、中国ではなく、逆行してきた未来人が、順行に転じてバラ撒いた可能性があります(笑)。むろん冗談ですが、ウイルス禍で人間が活動できなくなれば地球温暖化が止まることが、図らずも「記録」に残り、それはもう取り消せなくなりました。

 さっき(参照:宮台真司の『TENET テネット』評(前編):『メメント』と同じく「存在論的転回」の系譜上にある)紹介した『表象は感染する』という本の、タイトル自体で著者スペルベルが示したように、「記録」とは、真実であれ捏造であれ、それを前提に行動せざるを得ないもののことです。今回全世界的に共有されたコロナ禍の記録は、その意味で文明史的に重要な転機になります。中でも、思想や哲学の界隈で生じていた脱人間中心主義&存在論的発想が共に先鋭化し、従来タブーだったディープ・エコロジー=極端なエコロジーに、親和的な発想が出てくるだろうと思っています。

 この発想に従えば、未来の人類と動植物を死滅と苦しみから守るためには、「今の人類」を苦しめるコロナ禍が起こったのは、むしろタイムリーな福音です。僕にもそういう思いがあるくらいだから、ノーランにもあるはずです。だから、「今の人類」の苦悩と「未来の人類」の苦悩のどちらを取るか、というオープンエンドな問いを投げかけたのではないかと思います。いずれにせよ今後は、倫理ゆえに「今の人類」の9割を死滅させる「善なるサイエンティスト」が描かれても不自然じゃなくなりました。

 そのことを含めて、『TENET』には、敢えて踏み込んでいない生煮えのモチーフが山のようにあります。スピンアウトを作るとしたら、『スター・ウォーズ』シリーズみたいに何作も作れるはずです。そんな潜在的にヤバイ映画に対する扱いが、単なる「謎解き」のゲームに終始してしまうのは、残念だという思いがあります。だから今回話させていただいているんですね。さて、そこで、この映画が潜在的に提起した最も重大な問いを、敢えて言葉にすると、「人類が意識的に文明を放棄することはあるか?」です。

 ダースさんが参加しておられるので御存知のように、僕がゼミでよく話すのは、スペインによって滅ぼされたアステカ文明と違って、紀元前3世紀から紀元9世紀まで大規模に繁栄した古代マヤ文明(古典期マヤ文明)が、なぜ忽然と消えたのかということです。疫病説・内紛説・気候変動説など十種類ほどの仮説が提示されているけれど、文明の高度さや大規模さに鑑みて、どれも決定的というには程遠い状態です。

 マヤ暦を含め、マヤ的な「森の哲学」を最近まで継承してきた先住民たちの存在ーーシーロ・ゲーラ監督の『彷徨える河』が描くように今それも死滅しようとしているのだけれどもーーを考えると、どうも人が死滅したというわけじゃなくて、文明=大規模定住だけが放棄されたようにも見えるんです。そこでの僕のロマンチックな仮説は、「人々が、明確な倫理的理由があって、意識的に文明を放棄したのではないか?」というものです。

 文明の放棄に社会成員が合意しようもないとすれば、指導者層の賢者たちがが文明を終わらせるボタンを押したのかもしれません。とすると、そうしたことが実は過去にも他の高度な文明で行われてきた可能性もあります。とすれば、僕らも、後の人類文明の障害となるのを避けるべく、敢えてマヤ文明のごとき──ムー大陸やアトランチス大陸のごとき──遺構となることを選ぶ、という選択肢が視野に入って来ざるを得なくなります。

 なのに、そこは今までのSF映画ではきちんと描かれたことがありません。むしろ「今の人類」が消滅することは悲劇だという定番の前提で、最近の作品でさえも作られ続けてきています。そんな中で、クリストファー・ノーラン監督は、『TENET』において、これから描かれるべきSF映画へのジョイントとなるような未規定なものを、わざと作ったという可能性があると思うんです。僕がノーランであれば、確実にそれを意図します。

ダース:つまり、これで人類は救われた、ハッピーエンドだ、ということではないかもしれないという含みが重要で、そこに可能性があるということですね。

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