実写とアニメの境を見直す杉本穂高の連載開始 第1回は『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』評

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』評

映画は本当に写真が動いて始まったのか

 映画の始まりは、リュミエール兄弟とエジソンの発明であるのは常識だ。

 しかし、この2組が突然写真を動かそうと思いついたわけではない。画を動かしたいという欲望はそれよりもずっと前から存在した。

 17世紀にはオランダ人クリスティアン・ホイヘンスがスライド式のマジックランタンを発明した。ドイツ人アタナシウス・キルヒャーは、雲母の円板に幾つかの絵を描き、回転してスライドさせることで絵が動くようにみせたらしい。エジソンのキネトスコープの発明よりも200年も前のことである。(『漫画映画論』、P9、今村太平)

 日本映画黎明期の映画評論家、今村太平は『漫画映画論』の中で、エジソン、リュミエール兄弟以前の「映画の前史」に触れて、動く絵と映画の関係についてこう語っている。

「動く絵が映画の原始であるのは、そこに絵を動かす以外何の目的もないからである。絵が動くという驚異、これが動く絵の与えるすべてである。そしてこれこそ映画の本質であり、活動写真それ自身である」(『漫画映画論』、P7、今村太平)

 エジソンとリュミエール兄弟が映画の始まりとされているのは、この2組が写真を連続して投射することを可能にしたからだ。フィルムに写された「実写」が動いた時、映画が生まれたとされている。

 しかし、今日、映画である条件はフィルムであることと言えるだろうか。フランスの偉大な映画批評家アンドレ・バザンは、映画を写真についての考察を基礎として考えた。写真には本質的に現実を写し取る「客観性」があり、映画はその客観性を時間の中で表現するものだとバザンは考えた。この理論が、デジタル時代にもそのまま通用するかどうかは多くの識者が議論していることだ。なぜならデジタルという素材は、客観性を担保するにはあまりにも手軽に可変可能だからだ。

 しかし、映画の本質を、動きを記録・再現することではなく、「ゼロから運動を創造すること」だとしたらどうなるだろうか。もし、そう仮定したら、エジソンやリュミエール兄弟の200年前に動いていたマジックランタンによる運動の創造もまた映画だったのだと言えるだろうか。ひいては、デジタル時代のノンフィルムの映像も映画と言えるようになるだろうか。

 このような歴史観に立ってみると、アニメーションは映画の中の特殊なサブジャンルには全く見えなくなってくる。

 今後、映像文化が何世紀先まで続くのかわからないが、映画に運動の再現性や客観性が必要だとする考えは、20世紀の間だけの特殊な考え方になるかもしれない。

 ものすごく大げさなことを言うと、これまで信じられてきた映画史は「実写主義史観」すぎたのではないか。アニメーションと実写の接近と融合が進んでいる今起きているのは、20世紀的な価値観の転覆であるように筆者には思える。

時計の針を進める

 大それたことを言えば、この連載は、その時計の針を早めることを目的にしている。そのために、この連載ではアニメーション作品を実写を語るように語り、実写映画をアニメーションを語るように語る。

 実写映画に見られたようなカメラの写実性をアニメーションに積極的に見出そうと試み、実写映画が描き続けてきたテーマや題材が、今日いかにアニメーションが巧みに語っているかを語る。さらには、これまでの実写映画に見られた記録性を、アニメーションに見出すかもしれない。

 一方、これまでアニメーションの特性とされてきた、ゼロからの運動の創造や原形質的なものを実写映画の中にも見出したりもするだろう。時には、アニメーションと演劇の芝居の近さを語るかもしれない。そのほか、実写/アニメーション双方の作り手たちの相互影響を論じたり、様々な視点で「実写/アニメーション」の二分的思考を乗り越えることを試みる。

 正直言えば、本当にそのような語り方が可能なのか、100%の自信があるわけではない。しかし、時には蛮勇も必要だろう。この連載が、実写しか楽しめない人や、アニメしか楽しめない人を減らし、両方を楽しめる人が増える助けになればいいなと希望を抱きながら、無謀な試みに挑んでみようと思う。

 まず、最初の試みとして京都アニメーションの『劇場版 ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン』を、黄金時代のハリウッドが確立したメロドラマの作法で論じる。

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