『となりのトトロ』はなぜ多くの人々を感動させるのか 唯一無二の作品になった理由を解説

 本作は宮崎アニメらしいファンタジックな要素も顔を見せる。サツキとメイは、“まっくろくろすけ(ススワタリ)”や大、中、小の三種のトトロ、ネコバスのような超常的な存在と出会うことになる。

 かつて柳田國男は、岩手県の地方に根付いた妖怪などの伝承を『遠野物語』に編み、口伝えで残っている話を書き記した。そして、漫画家・水木しげるは、地方に伝わる妖怪の話を親しみやすいかたちで漫画やイラストで描き残している。それは、権力者ではなく民衆のなかで生まれた日本の物語であり、一種の歴史といえるものである。そんな物語の構図に、宮崎監督は自らのオリジナリティをくわえて解釈し直すことで、おどろおどろしさを払拭し、本作を誰もが受け入れやすいファンタジー作品として換骨奪胎しているのだ。

 私は、かなり多くの観光客がそうしてきたように、書籍『遠野物語』を片手に、いまだ過去の姿を多くとどめる遠野市を散策した経験がある。そのときに史跡や風習を見たことで実感したのが、神道と仏教が教えるもののほかに、日本には古来より一人ひとりが体験した出来事からなる、より個人的な宗教的世界が存在しているということだ。そしてそれらは、さらに神道や仏教と部分的に融合し、山岳信仰やアニミズム、修験道などとして、山里の文化を複雑かつ賑やかにしている。

 個人的な感覚と伝承との関係をとくに肌で味わったのは、遠野のある山道を登ったときだった。人の住む里と、普段は人の立ち寄らない自然の世界。その間には何か得体の知れない境界のようなものがあるように感じられた。いつしか自分が一種の異界に入り込んでいるような感覚に襲われ、突如として恐怖に似た感覚を覚えたのだった。水木しげるも、少年時代に同じような体験をしていて、その感覚を言語化して書籍に記しているように、そういった個人個人の体験が、神仏の理屈とは異なる部分で宗教性を帯びていったものが、妖怪や精霊といったものとして表現されていったのではないだろうか。本作でのメイとトトロとの出会いは、まさにそのような体験がベースにあるのではないかと思われる。

 メイがトトロに出会った後、父親はサツキとメイを連れて、あらためて“樹木の精霊”であると思われるトトロに挨拶に行くが、樹の側にある社(やしろ)ではなく、樹木そのものに頭を下げる描写も、興味深い部分である。ここで表現される自然への敬意というのは、権威的な大きな宗教が広まる以前の、より人間と自然が身近にあった頃のプリミティブなものではないのか。

 同時にトトロという存在は、創造力豊かだが周りに友達のいないメイが作り上げた“イマジナリー・フレンド”としての側面も持っている。本作のエピローグには、ノルウェーの絵本『三びきのやぎのがらがらどん』が登場する。そこに登場する、兄弟のやぎたちを脅す伝説上の怪物“トロル”に似たトトロが、メイの孤独をなぐさめてくれた状況というのは、いつも絵本を読んでくれていた母親への思慕が反映された、メイの幻想であり願望であったように思われるのだ。

 つまり、“トトロに会う”というのは、幻想に遊ぶという行為であり、その幻想にアクセスするためには、創造力や感受性が必要だということではないのか。サツキとメイの両親の素晴らしいところは、彼女たちの見る幻想の世界を、ただの夢だと決めつけず、興味深く聞くという部分にもある。もし両親がサツキやメイに、「そんなバカなこと言ってないで勉強や家事でもしていなさい」などと叱っていたとしたら、これ以上の奇跡は起こらかったのではないか。

 このような描写から、人間が豊かに“生きていく”ということは、そこでただ生活したり、金銭を稼ぐということだけではなく、空想したり、小さな発見を繰り返すような、実利とは結びつかない要素が必要だという、監督のメッセージを感じるのである。

 少し離れた隣家のおばあちゃんは、サツキとメイを自分の本当の孫のようにかわいがり、仕事に追われる彼女たちの父親に代わって、何かと世話を焼いてくれるようになる。その出会いは、サツキとメイがまっくろくろすけを見た体験と結びついている。おばあちゃんもまた、サツキやメイが見たものを少女の頃に見ているのだというのだ。ことによると、彼女もトトロに会っていたかもしれない。おばあちゃんがサツキやメイにただならぬ愛情を向けるようになったのは、少女時代の同じ創造力を持った同志であり、自分が失くした大切なものをそこに見たからではないだろうか。

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