『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒』はなぜオーソドックスな内容になったのか?

『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒』の先進性

 さらに象徴的なのは、ユアン・マクレガーが演じる本作の悪役だ。『バットマン』のコミックにも登場する“ブラックマスク”は、ここでは女性をまるで“物”であるかのように、自分の意のままに扱うことでプライドを維持する、歪んだ権力欲を持った人物として描かれる。女性たちが協力して彼を倒すという行為は、そのような女性にとっての有害な価値観を打倒し、自由な生き方を手にすることを意味するのだ。

 バーズ・オブ・プレイとハーレイは、ヒーローとヴィランの関係であり、本来は考え方を異にしている同士だ。しかし、ブラックマスクという保守的な男性像を相手にすることで、彼女たちの利害はひとときだけの一致を見せ、そこでともに戦う意味を見いだす。それは、かつてアメリカのアフリカ系アメリカ人たちが連帯し、また、ウーマン・リブや、近年の“#MeToo”運動によって、様々な考えの人々が同じ目的を共有し、力を合わせた行為そのものである。

 ハーレイと女たちが、男たちと乱戦を繰り広げるシーンには、グルグルと回る渦巻きに代表される、60年代風のサイケデリックなイメージが重ね合わされている。これは、その頃に始まった『バットマン』TVシリーズのコミカルなアクションシーンへの回帰であると同時に、ウーマン・リブが盛り上がり、女性たちが強く声をあげた象徴的な時代へのリスペクトが感じられる表現だといえよう。

 60年代のヒッピー文化が花盛りだった頃、映画においては、ある意味でハーレイ・クインのような、強いアウトローの女性たちの戦いが描かれた作品も現れていた。映画監督のラス・メイヤーによる『ファスター・プシィキャット!キル!キル!』(1965年)に代表されるような、扇情的な俗っぽい要素を持つ“エクスプロイテーション”映画である。その後、パム・グリアが主演した『コフィー』(1973年)などアフリカ系アメリカ人を中心に楽しませるものも作られ、さらにTVドラマ『チャーリーズ・エンジェル』のヒットへとつながっていく。

 それらはさらに90年代以降、クエンティン・タランティーノ監督によって、個性的な映画の要素ともなっている。本作『ハーレイ・クインの華麗な覚醒 BIRDS OF PREY』にも、時系列の組み換えなどの構造で『パルプ・フィクション』を参考にしていると監督が発言しているが、タランティーノ監督との作風のつながりは、さらに根本的な部分にも存在しているように感じられるのだ。

 日本においても、『女囚さそり』シリーズや『女番長(スケバン)』シリーズなど、不良女たちが、国家権力やヤクザの男たちとバトルを繰り広げる内容の作品群が、ちょうどアメリカのエクスプロイテーション作品と同じようなかたちで作られていた時期があった。

 鈴木則文監督の『女番長』(1973年)のラストシーンには、スケバンたちが、女性を苦しめるヤクザたちを風俗店ごと爆殺し、車を奪ってみんなで逃げるシーンがある。「どこ行くんだい?」「日本列島、万引き旅行さ!」と、小気味よく去って行く結末は、まるで本作『ハーレイ・クインの華麗な覚醒 BIRDS OF PREY』のようではないか。日本にも本作と同じようなメッセージを放つ作品があったのだ。それは、『トラック野郎』シリーズでも労働者の弱い立場を描いてきた、鈴木則文監督の社会観が生み出す表現でもあった。

 とはいえ、エクスプロイテーションには、バイオレンスとともに、セックスの要素が強くあったことは否定できない。女性の解放を描きながら、女性の身体をある意味で商品として見せるという、一種の矛盾がそこに存在しているのも確かなのだ。

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