アーカイブが繋げる未来 『わたしは光をにぎっている』が映す、失われつつある「東京」

『わたしは光をにぎっている』が映す“東京”

 そしてもちろん、本作のような劇映画でもそれは同じだ。その時にしか観ることができない演者の輝きとロケーションはしっかりと焼き付けられる。おそらく数年と待たずして、この映画に登場する立石駅前の雑多な街並みは見ることができなくなる。それは街に限った話ではない。劇中の最も重要な場所として登場する銭湯という空間は、都内ではここ数年で半減し、いま現在も少しずつ減り続けている。他にも個人経営の民宿や食品スーパー、澪が東京で知り合う自主映画を撮っている青年・銀次の誘いで足を踏み入れる映画館の映写室という場所も映画のデジタル化が進むにつれて減りつつあり、同じシーンで銀次から手渡されるフィルムカメラについては言わずもがなであろう。失われゆく街の景色と、失われゆく文化の両方が、この映画には確実に記録されたのだ。

 また終盤には、立石の街を生きる人々の姿が印象的に映し出されていく。一般的な劇映画に見られるような、クライマックスらしいクライマックス、物語的な起伏が本作には存在しない。それは、これから先も世界の至る所で街が生まれ変わるときに同じような物語が繰り返されるのだという普遍性を暗示し、それと同時に純粋に人と街が生きたことを記録したいという作り手の願いを感じさせるものがある。しかも、映し出される人々は皆希望に満ちた表情をしている。慣れ親しんだ空間が失われ、変わっていくという寂しさを繰り返しながら生きることを、この映画は一方的に批判せずに、前向きに捉えようとしているのではないだろうか。

 例えば銭湯のロケーションに使われているのは、東京都清瀬市の埼玉県との県境に程近くにある場所。ここから少し歩けばたどり着く東所沢駅の周辺には、まもなくポップカルチャーの一大拠点と銘打たれた再開発施設が誕生する。また映画館のシーンで使われているシネマジャック&ベティのある横浜の黄金町周辺は、戦後に生まれた違法風俗店の名残が多く残された場所だったが、この数年でアートを用いて街全体が活性化し、すっかり数年前とイメージが変わった街でもある。いずれも“変化する”ことを前向きに捉えるような場所を撮影地に選んだという点は本作の何よりも見逃せない部分であり、中川龍太郎という映画監督が懐古主義に陥らずとも愛すべき過去を愛し、目指すべき未来を目指せる作り手であることの何よりの証明なのではないだろうか。

■久保田和馬
1989年生まれ。映画ライター/評論・研究。好きな映画監督はアラン・レネ、ロベール・ブレッソンなど。Twitter

■公開情報
『わたしは光をにぎっている』
新宿武蔵野館ほか全国公開中
監督:中川龍太郎
脚本:末木はるみ、中川龍太郎、佐近圭太郎
脚本協力:石井将、角屋拓海
出演:松本穂香、渡辺大知、徳永えり、吉村界人、光石研、樫山文枝
配給:ファントム・フィルム
(c)2019 WIT STUDIO/Tokyo New Cinema
公式サイト:phantom-film.com/watashi_hikari/

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