世界と繋がる手段としてのピアノ 『蜜蜂と遠雷』が描く、孤独な天才たちの拠り所

『蜜蜂と遠雷』が描く、天才たちの拠り所

 会話劇となるシーンももちろんあるが、やはり見どころとなるのは彼らが鍵盤をはじく姿。だが音を発しているのは彼らではないのだから、俳優たちの表現は音楽ではなく、身体にこそあるのだ。この点を踏まえた上で作品を振り返ると、先に述べたように、彼らの身体の動きは音楽にあわせた“舞い”と呼ぶにふさわしい。音色に対しては「力強い」「美しい」といったチープな感想しか出てこないのだが、身体に対しては思わず感応してしまう。クラシック音楽に敷居の高さを感じる方も、おそらく同様だろう。

 さて、本作は、母の死によって「私」を喪失してしまった少女が、「世界」に対して「私」という存在を再度見出していく物語だということができる。まだ幼かった少女にとって大切な人を失うというのは、あまりに大きな耐え難い経験なのだろう。大切な母との間に介在していたのはピアノであって、その母の死によって彼女は、これまでと同じようにはピアノに向き合うことができなくなった。母親の存在は彼女にとっての拠り所であり、この母がピアノを介して、“世界には音楽が溢れていること”を幼き少女に教えてくれた存在なのである。

 ピアノに向き合うことができなくなるということは、逆説的に、母という拠り所の完全な喪失を意味している。つまり、「世界」から「私」を失ってしまうということに繋がっているのだ。それは、ピアニストである彼女にとって、「私=自信」の喪失とも言える。そしてこれは彼女だけでなく、才能にも年齢にも限界を感じている男が、“生活者だからこそ出せる音”を志し、家庭というものを拠り所としていることや、決して恵まれた環境ではないのに“天才”として見出された少年が、“ピアノそのもの”を拠り所としているのとも同じである。

 拠り所というものは、誰にだってあるだろう。彼らにとってのそれは、「ピアノ」そして「音楽」とかなり近しい場所に位置づけられているのだ。音楽に向き合うことが全てであるの彼らにとって「ピアノ」とは、「世界」と繋がる手段なのである。

 私たちは自らの生活において、「世界」というものをどのように規定し、そのなかにある「私」という存在をどのように認識することができるだろう。『蜜蜂と遠雷』は音楽の世界を通して、ふと、そんなことを考えさせてくれる。この作品もまた、観る誰かにとっての拠り所となり、「世界」に繋がるためのものとなるかもしれない。

■折田侑駿
映画ライター。1990年生まれ。オムニバス長編映画『スクラップスクラッパー』などに役者として出演。最も好きな監督は、増村保造。Twitter

■公開情報
『蜜蜂と遠雷』
全国公開中
出演:松岡茉優、松坂桃李、森崎ウィン、鈴鹿央士
原作:恩田陸『蜜蜂と遠雷』(幻冬舎文庫)
監督・脚本・編集:石川慶
配給:東宝
(c)2019 映画「蜜蜂と遠雷」製作委員会
公式サイト:https://mitsubachi-enrai-movie.jp/

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「作品評」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる