「コンテンツ立国」を目指すためには必須? デジタル時代の日本における、映像アーカイブの重要性

映画アーカイブの法的課題

 ここで、日本における映画アーカイブの歴史を簡単に俯瞰したい。日本は映像アーカイブ事業において、遅れを取っていると言われている。実際に映画の収集活動が公共事業として本格化したのは、1952年の東京国立近代美術館開館とともに「フィルムライブラリー」が設置されたことに始まる。このライブラリーは、1935年に設置されたニューヨーク近代美術館の映画部を参考したものだそうだが、日本はそこから遅れること16年後にようやく映画の収集に国が本腰を入れたということになる。

 1952年というと、黒澤明の『羅生門』がベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した翌年だが、そのように日本映画が世界で華々しく評価されるまでアーカイブの組織がなかったことになる。そして、長い時を経て、国立近代美術館から独立する形で国立映画アーカイブが2018年に発足した(参照:『専門図書館』 No.292 2018年11月号、P20 「フィルムセンターから国立映画アーカイブへ~映画の保存活動とデジタル時代の取り組み~」入江良郎、三浦和己、岡本直佐)。

『日本におけるフィルムアーカイブ活動史』

 ちなみに欧州においては、映画アーカイブの組織は1910年代から存在していたそうだ。フィルムアーキビスト石原香絵の著書『日本におけるフィルムアーカイブ活動史(美学出版)』によれば、1913年デンマークに設立された「デンマーク国立映画と声のアーカイブ」が世界最古の映画アーカイブの組織とのことだ。

 では、50年代以前の日本では映画の収集を全く行っていなかったかというと、そうではない。むしろ太平洋戦争中には、政府は「映画法」の下、映画の提出を求める法定納入制度を実施していた。しかし、それは映画遺産を保存する目的よりも検閲に主眼が置かれたものであった(条文はこちら)。その映画法は終戦の年(1945年)の12月26日に廃止された。「非民衆主義的」とされる映画は没収されることになり、多くの映画が米軍によって焼却されたらしい。そのような戦後の混乱期に、検閲のためとはいえ存在していたアーカイブ機能がリセットされてしまったと石原香絵は上述の著書にて語っている。

 検閲という表現規制が最も激しかった時代にアーカイブ活動が活発だったという事実は非常に興味深い。確かに国家の不都合な表現を精査するためには、まず一度集める必要がある。作品の収集・保存を国家機関に頼ることはそうしたリスクもあることを承知しておくべきだろう。

 しかしながら、日本では大規模なアーカイブを民間予算だけで行うのは困難だろう。寄付文化の強いアメリカではニューヨーク近代美術館のような、民間からの寄付を主体に運営している組織が大規模なアーカイブを行っているが、欧州でもアーカイブ事業を行うのはフランスのシネマテーク・フランセーズやイギリスの英国映画協会など、国家予算をたよりにしている組織がほとんどだ。日本の国立映画アーカイブも国家予算で運営されているが、独立行政法人なので今のところは一応の独立性は担保されていると考えていいだろう。

 戦中、戦後の映画保存の動きとともに、日本の映画アーカイブにとって重要な分岐点となったのは、国立国会図書館法の定める「法定納入制度」の問題だ。これは、国内出版者に対して出版物を国会図書館に納本する義務を課した制度だが、実はこの法律、映画フィルムの納入をも義務付けている。24条で納入する出版物を定めてるが、そこに図書や小冊子に雑誌などの逐次刊行物、楽譜や地図とともに映画フィルムも明記されているのだ(参考)。

 しかし、実際には映画フィルムの納入は義務付けてられていない。なぜかというと、映画フィルムは同法において納入の免除対象ともなっているからだ。

 「この法律による改正後の国立国会図書館法第二十四条第一項第六号に該当する出版物については、当分の間、館長の定めるところにより、同条から第二十五条までの規定にかかわらず、その納入を免ずることができる」と書かれた附則がその根拠となっている。

 免除の理由について石原香絵は、この附則ができた法改正時に挙げられた3つの理由を著書で紹介している、1つは納入しても上映、提供できるノウハウを国会図書館が持っていないこと、2つめは映画フィルムの価格が高いこと、そして当時の映画人が最も反論しづらかったであろう3つめは当時の映画フィルムが燃えやすい素材でできた「ナイトレートフィルム」であったことだ。

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