『ホットギミック ガールミーツボーイ』徹底解説! 山戸結希監督が確立させた“新しい映画表現”

『ホットギミック』を徹底解説!

「壁ドン」に潜む暴力性

 社会のなかでは、“かわいい”や“かっこいい”が、恋愛の武器として流通し、そこに市場価値や消費期限のようなものが設けられてしまってもいる。そんな手札を、誰に対して、どこで切るのかという、現実のなかでの勝負「ホットギミック(熱い駆け引き)」に、“女の子”たちは日々悩まされているといえるかもしれない。そして、それが駆け引きである以上、様々なリスクがあることも確かだ。意志が弱くつけ込まれやすい初は、そんなゲームに参加することで危険に足を踏み入れてしまうことになる。それは、日本社会のなかで女の子が経験するかもしれない、一つの現実である。

 「壁ドン」などに代表される、男子から女子への強引なアプローチが、少女漫画を中心に流行ったことがあったが、ここではそれらが“奴隷”や“裏切り”など、もっと過激なかたちで表現され、さらに一種の暴力のようなものとしても描写されている。本作は、女子がドキドキするような要素のなかに暴力性が潜んでいることを、少女漫画原作の映画という立場から告発する。そしてこのような状況は、亮輝の同級生たちが女子を見下していることが分かる発言によって強調される。

「オンナってだいたいそういう映画しか観ないよね」

「キラキラした世界で『私のコト食べてーっ』て、女の子たちの切ない想いがあるから、そこに俺らが付け込めるわけでしょ」

 つまり、一部の女子がドキドキして憧れるような“壁ドン”的価値観が存在するがゆえに、それを利用して男子たちは女子を思い通りに“利用できる”という構図があるということだ。もっといえば、そのような価値観というのが、長い歴史の中で男性・女性の関係性において支配的な価値観だったのではないだろうか。社会全体がそのような暴力性を容認してきたことが、恋愛観にも浸透し、“それが当たり前”だとみんなが思わされてきたのではないか。本作はそこまで見通した上でラブストーリーを描いているのだ。

「私の身体は私の物」

 面白いのは、「壁ドン」的価値観の代表する存在にも思える亮輝が、「お前の意志はどこにあるんだ」「自分の頭で考えろ」などと、じつは女性の自立を促すような、真逆のメッセージをも初に伝えている場面があるということだ。これは一見、「マンスプレイニング(男性が女性に対して偉そうに解説すること)」のようにも感じられるが、一方で初はこのように発言している。

「いまの私を『バカだな』って言ってくれる人と出会いたかったの」

 注意深く亮輝の言動や、そのときの状況を考えながら場面を見ていくと、彼のイラ立ちや暴言というのは、批判のかたちをとっているとはいえ、「大好きだ」という意味のことを繰り返し言い続けているに過ぎない。そしてそれは、自分が愛情を感じている初に自尊心が無く、男の要求にフラフラと流されることへの怒りの発露でもある。嫉妬心からの言葉とはいえ、それが初の自立をうながすきっかけになったこともたしかなのだ。

 たまりかねて「俺の物になれ」と言ってしまう亮輝に対して、初は「うん!」……ではなく、「私の身体は私の物だ!」と返答し、自分の足で立つことができれば、あなたでなくても、誰とでも幸せになれるとすら言い放つことができるまでに成長する。いろいろと問題のある亮輝だが、彼と対話することが、初の可能性を広げることになったのだといえるだろう。そして、亮輝が初に気づきを与えたように、初の存在もまた亮輝を変え、救っていく 。二人はまだ未熟な学生同士だが、だからこそ対話し合うことで、お互いの認識を日々更新(アップデート)し、成長していくことができるのだ。

 初を演じる堀未央奈は、一見すると何の色にも染まってない雰囲気で、話し方も幼く感じるところがある。だがその一方で、大きな瞳に強い意志を宿していると感じられるように、彼女の持っている二面性が、成長を始めていく初という複雑なキャラクターにそのまま重なっていく。

「バカのままでいる」という哲学

 勉強をあきらめていた初は、塾に入って将来のことを考え始めるようになり、「バカ、バカ」と言い続けてきた亮輝の考えを変えていく。そして二人は「ずっとバカのままでいたい」という境地にまで達することになる。本作における、このような結論は何を意味してるのだろうか。

 かつて、ギリシアの哲学者ソクラテスは、「無知の知」を唱えた。それは、人間というものは完全な知識を備えることができないという意味において、似たり寄ったりであり、その上で、自分がものを知らないということを自覚できている人間の方が、自分のことを頭が良く優れていると思っている人間よりも、わずかながら優れているはずだという考え方である。

 初と亮輝が、お互いに対話することで“自分がバカだ”ということに気づくことができたからこそ、一つ上のステージに達することができたように、対話のなかで自分がバカでいることに気づき続けることさえできれば、どこまでもお互いの考えを高め合っていけるのかもしれない。そして、それこそが恋人同士の最良の関係なのではないだろうか。もっといえば、恋人や結婚相手ならずとも、そのように高め合うということにしか、真に人と人とが一緒にいる意味はないのかもしれない。本作が提示したのは、そのような一つの根源的な関係性である。

 盲信する恋愛でもなく、甘え続ける恋愛でもなく、初は自分が自立して生きるための成長する可能性を選ぶ。そこでは、もはや恋人すら必要ではない。初は相手に求められるから恋愛するのでなく、いまこのとき、この相手と恋愛したいと思うから恋愛するのである。だから彼女は「ずっと一緒にいよう」ではなく、「約束はできない」と言うし、「大好きかは分からない」と言う。そう相手に伝えることができた初は、これまで彼女を捕らえていた呪縛から解き放たれ、まったく違った世界へと走り出すのだ。

 恋愛をする必要がない……一見、恋愛映画を否定する要素を含んでいるようにも感じてしまう本作だが、そこを一度くぐり抜けることでしか、いまの日本で“女の子”が能動的に恋愛をする姿を描くことはできない。その意味で本作は、遅かれ早かれ、日本で作られるべきだった恋愛映画だといえるだろう。

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