宮台真司の『A GHOST STORY』評(後編):「存在」から「存在の記憶」へ、さらには「存在したという事実は消えないこと」へ

宮台真司『ア・ゴースト・ストーリー』評後編

『トロピカル・マラディ』が描く「垂直の多視座」

 [光⇒闇⇒光]は[草原⇒森⇒草原]を隠喩する通過儀礼形式です。トラック移動は[草原(前半)⇒森(後半)]を予示します。後半を見終わって、僕らは前半を想起します。この想起が[森⇒草原]です。合して[草原⇒森⇒草原]の通過儀礼形式です。男が一度は出家するタイの寺院は森にあります。[俗世⇒浄土⇒俗世]の通過儀礼形式です。全て共通して[輪郭ある時空⇒輪郭なき時空⇒輪郭のある時空]です。

 こうした隠喩の重ね焼が見事に後半への接続機能を果たします。二人は夜闇の中で別れます。トンが立小便したその手をケンが舐めます。この小便は先の映画館のそれと同じで無防備を隠喩します。無防備は変性意識状態の依代です。変性意識のまま闇をバイクで移動するケン。群立する街灯。屋台の灯。路傍で喧嘩する男共。「移動つながり」で森に向かうトラック。男たちの顔・顔・顔──。

 後半との繋ぎ目。トンが宿泊した部屋にケンが入るとトンはいない。牛が怪物に襲われたという立ち話が聞こえます。机上に残されたフォトブック。トンと他の男のツーショット。ケンの表情は分かりません。長い暗転。後半開始です。かつてシャーマンが虎に合体、虎はシャーマンの亡霊になったとテロップが流れます。虎追い役は、ケン役と同じ役者。虎男役は、トン役と同じ役者です。

 これは換喩です。映画前半は「トンを追う森林警備隊員ケン」の話。後半は「虎男を追う森林警備隊員」の話。双方とも[追う存在]が[追われる存在]と合体したがります。前半は性愛的(水平的)合体。後半は捕食的(垂直的)合体です。でも「追跡と合体」のモチーフが共通するので、物語として何の関係もないのに繫がりはスムースです。後半で何を体験できるか。紙幅が少ないので概念的に説明します。

 [前半⇒後半⇒前半想起]という継起が、[光⇒闇⇒光]即ち[草原⇒森⇒草原]の通過儀礼形式を与えます。「想起された前半」は「前半」とは違います。前半は水平(人の関係)の視座で、想起された前半は垂直(物の関係)の視座です。言い換えると前半は<社会>の視座で、後半は<世界>の視座、正確には<世界>の視座を経由した<社会>の視座です。だから、想起された前半は「再帰した視座からの前半」です。

 <世界>視座経由の<社会>視座に対して<社会>は奇蹟として浮上します。前々回紹介した初期ギリシャ=デュルケムの視座です。<世界>視座経由とは<世界>「からの/への」視座を伴うことです。繰り返すと<社会>は元々「個体視座」ならぬ「接触する多視座」「パラレルワールド的多視座」です。「個体であること」が「どうでもいい偶然」と体験されるから、個体であることが「かけがえない奇蹟」なのです。

 その気づきが、「与えられてある事を引き受ける覚悟」という中動態の構えを与えます。人は「未規定なものに誘惑される存在」です。ケンがトンを追うのも、森林警備隊員が虎男を追うのも、そう。トンと虎男を演じるサックダ・ウンプアディーの顔は未規定と言うに相応しい。畢竟、後半を経由して前半を想起する僕らは、前半の「微熱の街」と「風来坊」が、未規定性による誘惑の源泉だと知ります。

 最近ほぼ同時に公刊された上妻世海『制作へ』と群司ペギオ幸夫『天然知能』が同じ命題を語ります。人が制作する時、AIと違い、どんな構想があろうと、制作前ないし制作中は制作結果が未規定である、と。人は未規定性がなければ制作へと動機づけられません。結果が規定されていたら誘惑されないのです。上妻も群司も弁えるように、アート制作に限らず、人の行動一般にも言えます。

 映画で言えば、虎を追う森林警備隊員に、樹上の猿が語る、「お前には絶えず影のように虎がついている」という科白は、その隠喩です。虎を追う男に絶えず影のように虎がついている。虎を追いながら虎に駆られている。虎に駆られて虎を追う。人は未規定性に誘惑されて未規定性を追う。実際『アンチクライスト』と同じく万物の輪郭が不明確でジメジメした暗い森を、男は彷徨い続けます。

 猿が「(お前が虎を知らなくても)虎はお前をよく知っている」と非対称性を告知します。そう。だから森林警備隊員は虎を追って合体したがるのです。例えば、僕は未規定性に合体したくて文を書きます(制作します)。合体した暁には未規定な影が若干の輪郭を帯びますが、そこに新たな未規定性の影が生じます。謂わば「影踏み鬼」のように前に進みつつ、合体した僕(みたいなもの)は上昇します。

 でも、どんなに合体・上昇しようが僕たちには未規定な影(虎)がつきまといます。だからこそ、猿に「絶えず影のように虎がついて来てお前を視ている」と告げられた男は「虎との合体」を願います。これは前半に描かれた「性愛相手との合体」と似ながらも、違います。同じ「他なるものとの合体」とはいえ、「人との合体」は「水平方向の合体」ですが、「虎との合体」は「垂直方向の合体」だからです。

 だからラストの、虎との合体シーンでは、捕食する虎は樹上、捕食される男は樹下、にいます。ここでは、「捕食する欲望/される欲望」の非対称性と、「樹上=全体/樹下=部分」の非対称性が重ねられています。だから男は一方的に「委ねよう」とする──。このモチーフは説得的です。僕らが「そのこと」を既に「知る」からです。「僕らの蓄積」が、<世界>はそうなっているという寓意を触発します。

 上妻は鏡の喩を使いつつ、人が他者を好むのは、他者が「自分ではないが、自分でなくもない」存在だからだとします。これも僕らが既に「知る」ことです。これが「水平方向の合体」です。ただし既に話したように一体化・融合ではなくダイナミックな膨縮です。他方、僕自身を振り返って分かるのは、これとは別に、「微熱の街=<森>」に合体したいという欲望があること。「垂直方向の合体」です。

 人類学者ヴィヴェーロス・デ・カストロの「多自然主義」とは複数の時空の並存です。並存には「横(水平)の並存」と「縦(垂直)の並存」があります。「横の並存」は映画で言えば昔からマルチスレッド法で描かれてきました。ポール・トーマス・アンダーソン監督『マグノリア』(2000)が典型です。テレンス・マリック『シン・レッド・ライン』(1998)では、複数の兵士達の回想のパラレリズムに当たります。

 同じ「人」とはいえ、共軛不可能な体験をベースにした、共軛不可能な視座があり、想像を絶した様々な人生がある。だからこそ互いに反発したり惹かれたりする──。しかし『シン・レッド・ライン』には『マグノリア』にはない「縦の並存」が描かれます。ワニの時空・鳥の時空・先住民の時空・日米兵士の時空・森と海の時空──。共軛可能性が期待されないので、共軛不可能の概念もない。

 環境倫理学者ベアード・キャリコットは、人類学的探索を経た末、「生き物としての場」という概念を立て、環境を守るべきな理由を功利論(損得計算)にも義務論(生物の人格化)でも説明できない、ただ全体論(生き物としての場)だけが説明できる、としました。この説明は「場に見られている」即ち「街に見られている」「森に見られている」という体験が与える享楽(彼の言葉で「尊厳」)に関連します。

 <森>は「縦(垂直)の多視座」の輪郭不明な重なり合いです。だから<世界>の喩です。他方<社会>は「横(水平)の多視座」が並存する<草原>。『トロピカル~』の前半は「横の多視座」=scopeを、後半は「縦の多視座」=depthを、描きます。前半は「横の多視座」を体験させますが、後半から前半を想起する時、“「縦の多視座」を経た「横の多視座」”が体験され、そこで「横の多視座」が奇蹟化されるのです。

 <世界>は深く<社会>は浅い。だから<世界>は恐ろしく、<世界>を見ないことで<社会>が与えられます。後半のラスト、捕食直前の森林警備隊員が「恐怖と悲しみが俺を与えた」と呟きます。<社会>が<世界>の否定性に隣接する事の謂いです。<世界>(森)を否定した上での<社会>(草原)。でも、<世界>を経由して恐怖に戦慄した眼差しにだけ、<社会>におけるエロス的膨縮が奇蹟として現れます。

 この作品に照らせば僕らは二つの次元で閉ざされています。まず第一次元では、『トロピカル~』前半が描く「横の多視座」が与えるエロス的運動体から閉ざされています。僕が「クズ」と呼ぶ人々です。第二次元では、『トロピカル~』後半が描く「縦の多視座」が与える奇蹟の感覚から閉ざされています。ただし幸か不幸か、第一次元で疎外された者たちにとって、第二次元は端的に無関連です。

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