監督の作家性を維持しながらリッチな作品に “笑えない悲劇”『女王陛下のお気に入り』の実験性

『女王陛下のお気に入り』の実験性

 その理由はすぐに分かることになる。召使いとして宮中に勤めだしたアビゲイルが、女王の寝室で目撃したように、サラは女王と肉体的な関係にあった。「閨房術」、すなわちベッドでの性的なテクニックによって、サラはアンを意のままに操っていたのだ。劇中でしっかりと描かれているわけではないが、サラと女王の普段のやりとりを見せることで、ふたりがベッドのなかで、どのような役割でいるのかが、かなりのところまで推測できてしまうように描かれている。

 そのことを知ったアビゲイルはチャンスをうかがって、女王のベッドのなかにすべりこみ、自分もまた彼女の心理をコントロールしようとする。まさに北風と太陽。サラはベッドで激しく強引に女王を支配し、アビゲイルはベッドで優しくおだてながら女王を操る。アン王女はどちらの魅力も捨てがたく、両極の感情と快感を味わいながら、反発し合う彼女たちを手元に置きつつ、自分を取り合ってサラとアビゲイルが火花を散らす姿を楽しんでもいた。

 本作は、死や戦争、性愛などがシリアスな雰囲気で暗示されるために気づきづらいが、このように権威を滑稽に風刺した過激なコメディー作品なのである。とはいえ、これが“真実ではない”という保証もない。ここで描かれる宮中での下品な乱痴気騒ぎが象徴するように、高貴で威信のある王室や貴族の人間性など、実際はこの程度のものであり、多くの人間がうやうやしく、または誇りと考えている歴史とは、ただ動物的なものでしかないという厳しい冷笑を浴びせかけている。

 それがただの乱痴気騒ぎや乱れた恋愛に終始するだけなら、さほど問題はないかもしれない。だが、大権を握る女王が、このような方法で側近たちに籠絡されているというのは、国民にとって悲劇であろう。ことに当時はフランスとの戦争中なのだ。国民の血が流れる重要な決断に、それぞれ政治的に反対の立場の後ろ盾を持つ、サラやアビゲイルの思惑が大きく影響しているのである。その意味で本作は、悲劇を装った喜劇であるばかりでなく、喜劇の果てに悲劇へと行き着く作品なのだ。

 このようなテーマを、本作では特殊な撮影が強調している。具体的には、広角レンズと魚眼レンズの使用である。映画では通常、このように特徴的な映像を見せてしまうと、カメラの存在をいやでも観客に意識させてしまい、物語への没入を阻害する原因となってしまう。しかも、本作の舞台となるのは映画カメラの存在しない時代なので、なおさら臨場感は希薄になってしまう。だから、このような選択を映画監督やカメラマンはとらないことが常識的である。

 しかし本作に限っては、この手法が効果をあげている。彼女たちの狂態をあくまで冷徹な目でとらえさせるためには、演出上、観客に感情移入させ過ぎてはならない。あくまで第三者としてシーンを眺めなければ、この異常性を真っ直ぐに認知し得ないのである。そして我々観客は、あくまで現代的な社会性を保ちながら、隠しカメラを使うように、客席から彼女たちをひっそりと観察する必要があるのである。

 同時に、この湾曲した視界がかたち作る、天井も床も同一フレームに収められた映像が、宮廷やその周辺だけが“世界”であるかのような、彼女たちの狭い社会観を表現することにもつながる。遠い地では、いまも国民が血を流しながら戦っている。だが、権力によって状況を打開できる女王は、自分の境遇を嘆きながら刹那的な快楽に身をゆだねているだけなのだ。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「作品評」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる