『来る』評価二分の理由は“二つの先進性の絡み合い”にあり? 中島哲也監督の作風から探る

『来る』評価二分の理由は?

 岡田准一、黒木華、小松菜奈、松たか子、妻夫木聡と、豪華キャストを集めた『来る』は、日本ホラー小説大賞を受賞した澤村伊智の『ぼぎわんが、来る』を原作とした、超自然的で邪悪な「何か」に襲われる一家と、霊能力で立ち向かう姉妹、そして事件に巻き込まれたオカルトライターらの戦いとドラマを描いた映画だ。

 まず指摘したいのは、前作『渇き。』(2014年)同様、本作『来る』は、『告白』までの作品に比べて、登場人物たちの心情の裏にある背景を、かなりの部分で説明していないという点だ。妻夫木聡演じる、イクメンパパを気取る「秀樹」の祖父母についてや、黒木華演じる、育児ノイローゼ気味の母親「香奈」の、最後の登場カットで浮かべる笑みの理由……そういったものの裏に何が潜んでいるのか、そして肝心の「あれ」とは何なのかについて、観客に開示する姿勢を見せない。だから、原作小説を後から読むと、「なるほど、そういうことだったのか……」と、映画だけでは分からなかった設定がいろいろと理解でき、作品の全体像を補完することができた。

 観客の心をつかむには、多くの場合、登場人物への「共感」がベースとなる。感情移入できない人物が物語のなかでどうなろうと、観客はさして興味を持てないからだ。本作は、共感を生む手前で登場人物の説明を止めてしまう。これによって、ばらまかれた様々な要素が不発に終わり、『告白』までの作品のような感動を得にくいのだ。

 松たか子と小松菜奈の、霊能力を持った姉妹のキャラクターは、『アナと雪の女王』を彷彿とさせるようなアイドル性によって、観客の支持を受ける可能性は十分あったはずである。もはや国家レベルの大事業として描写される、大規模な「お祓い」についても、楳図かずおの『神の左手悪魔の右手』や、大友克洋『童夢』などを思い起こさせる、霊能力や超能力による漫画的な面白さを発揮させつつも、上記のような理由によって、いまいち爆発しきらないのだ。

 では、この映画は失敗したつまらない作品なのだろうか。もし本作に十分な説明を与え、各登場人物に観客が自分を重ねられるように変えてみたとしたら、確かに現状よりも支持は増えていたかもしれないし、話題になったかも分からない。そしてここで描かれた社会問題についても、注目され議論が深まっていたような気もする。だが、そのような想定内に収まる成功した作品は、別の意味で「面白くない」ものになったのではないかとも思える。すでに『告白』が、その線の表現をある程度究めてしまっているからである。

 説明を省いて、観客に映像の意味を想像させるような手法は、アーティスティックな映画では珍しくない。『渇き。』においてその萌芽を見せていたように、本作もまた、それを娯楽表現のなかで行っているところが特徴的なのである。『下妻物語』(2004年)や『告白』などによって旧弊な「映画的表現」を逸脱しようとしてきた中島監督は、ここで新しく、娯楽映画でありながら娯楽映画の手法に抗うようなアンビヴァレントな姿勢を見せ始めている。だから、『渇き。』や『来る』は、いままで以上の先進性を持った作品であり、その意味でエキサイティングなのだ。

 それでは本作において、その手法はどんな効果をもたらしているのだろうか。確かにここでは、人間の内面に入り込んでいくという感覚は薄い。しかしそのおかげで、人間模様を俯瞰から眺めるようなものになっているところが面白い部分なのではないだろうか。

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