岡田准一主演『来る』に隠された「あれ」の正体 原作との比較から考える

映画『来る』が迫る、「あれ」の正体

 この時点で「あれ」とは、「ぼぎわん」以外の存在にも交換可能だとも言える。誰しも一度は幼少期に、親類縁者からそういった存在をほのめかされ、怖い思いをした経験があるのではないだろうか。それらは現在も脈々と語り継がれ、ある意味では身近な存在だとも言えるだろう。数年前に筆者は友人のカッパ探しに同行し、民話の里とも呼ばれる岩手・遠野まで赴いたことがある。現地で語り部の方から民話を聞いたあとで目にした、カッパの伝承地“カッパ淵”や、有名な姥捨て山“デンデラ野”は、やはり想像以上に寒々しいものであった。

 少し脱線してしまったが、こういった日本人だからこそ持つことができる、不可思議な存在へのある種の身近さ、リアリティが、原作から読み取ることができる恐怖の大きな要因であったように思う。これが本作では、登場人物たち「個」の心(の闇)に、よりフォーカスしている。外ヅラばかりいい“イクメンパパ”(妻夫木聡)、育児ノイローゼの妻(黒木華)、ある理由から子どもの存在を快く思えないでいるオカルトライター(岡田准一)、子どもをもつことができない女霊媒師(小松菜奈)。彼らを結びつけたのは「あれ」の存在ではあるが、その「あれ」が狙うのは、彼らの中心にある子どもなのである。すなわち「子」をめぐって彼らは出会い、物語が進むにつれて、彼ら「個」の心(の闇)が露見していくことになるのだ。

 原作における彼らの内面は、綴られる文字の行間から滲み出るのにとどまっていたが、その点こそが、ミステリアスかつスリリングな魅力であった。しかし本作では、演者たちの肉体と声を通して、それがより露骨に放たれている。“イクメンパパ”が絶えず浮かべる微笑は、やがて気がつけば醜い半笑いとしか感じられなくなるだろう。それらは音と光の氾濫とともに、露悪的に、まさに“バケモノ”のように私たちの前に現れるのだ。

 日本人は昔から、不可解な現象が起こると妖怪の仕業にしてきたのだという。映画化に際してその存在をぼかされた「あれ=ぼぎわん」だが、ぼかされたことによってその正体は、人の心(の闇)が生み出したもの、あるいは人の心(の闇)そのものだと受け取ることが、本作の場合は妥当だろう。

 冒頭で述べた身体の不調は、必ずしも物語に対しての反応だけではない。その一つひとつを追うことなどとうてい不可能な、本作の目まぐるしい情報の奔流から受けた、視覚・聴覚へのダイレクトなダメージでもある(1997年の“ポケモンショック”を思い出したりもする……)。物語冒頭に、「迎え入れましょう。あれを」という印象的なセリフがあるが、「あれ」を迎え入れるとは、自身の闇に向き合うこと、さらにはそれらをバケモノじみた勢いで映し出した、この作品そのものを受け取ることに他ならないのではないだろうか。

■折田侑駿
映画ライター。1990年生まれ。オムニバス長編映画『スクラップスクラッパー』などに役者として出演。最も好きな監督は、増村保造。

■公開情報
『来る』
全国公開中
監督・脚本:中島哲也
企画・プロデュース:川村元気
原作:澤村伊智『ぼぎわんが、来る』(角川ホラー文庫刊)
出演: 岡田准一、黒木華、小松菜奈、松たか子、妻夫木聡、青木崇高、柴田理恵、太賀、志田愛珠、蜷川みほ、伊集院光、石田えり
製作プロダクション:東宝映画、ギークサイト
配給:東宝
(c)2018「来る」製作委員会
公式サイト:http://kuru-movie.jp/

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