なぜ人は危険を冒してまで「報じる」必要があるのか 『タクシー運転手』が大きな反響を呼んだ理由

『タクシー運転手』が大きな反響を呼んだ理由

 そんな考えの持ち主だったマンソプだが、あるドライバーが割りの良い仕事を得たことを小耳にはさみ、その仕事をこっそりかすめ取ったことで、彼の「巻き込まれ」がスタートする。それは、英語もほとんどできないというのに外国人の記者を乗せ、光州に行って帰ってくるという割りがいい以外は特殊なところのない仕事だった。

 だが、光州についたマンソプは、催涙弾が飛び交うデモ隊と鎮圧する軍の紛争に巻き込まれてしまう。それでもカメラを向ける記者に対して、「行ってもかわらない」と言い放つ。平和なソウルから来た者としては、そのデモもいつもの光景と変わらぬものに見えたからだろう。

 しかし、この映画を観ていくと、なぜ人が危険を冒してまで「報じる」必要があるのかということが、マンソプを通して理解できるようになるのである。

 1980年の光州で確実に起こっていた、軍による民間人への弾圧が、光州以外の地域ではある時期までまったく知られていないということは事実である。それが葬られるということは、光州や韓国だけの問題ではない。不都合な出来事が葬られるということが一つ許されれば、どの国でもほかの不都合も葬られてしまいかねないということなのだ。

 マンソプは、それを身をもって体験してしまった。彼は巻き込まれただけだから、記者を光州に運んだだけでもお役目の半分は果たしているとも言える。もともとは、自分の目の前の生活でいっぱいいっぱいだった人だ。光州にいる間にも娘のことは気にかかる。それが保守的な人のありかたであり、平和なときにはまったく問題はない。

 しかし、そんな保守的な、自分の半径数メートルの幸せを守るべきであったはずの善良な市民が、自分の半径数メートルの幸せすら守れなくなるのが、光州事件であり、さまざまな紛争なのであるということを改めて実感した。

 マンソプは、あまりにもひどい軍の弾圧に触れてもなお、「娘には俺しかいないんだ」と涙ながらに語り、夜中に1人光州を後にする。しかし、光州で見たあの軍の弾圧が、光州の外の新聞報道では、反社会勢力と暴徒化した市民が悪者になっている「フェイクニュース」を見て、真実を伝える手伝いをしなくてはという強い気持ちを抱くのである。最初はデモに無関心であったマンソプの理解が変わる瞬間である。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「作品評」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる