『インクレディブル・ファミリー』が描く男女の対比 “ファミリー映画”としてのユニークさを解説

伊藤聡の『インクレディブル・ファミリー』評

 思えば、夫であるMr.インクレディブルは、端から見ていて気の毒なほど「男性らしさ」にとらわれたキャラクターであった。強くあらねばならない、自分が外に出て稼がなくてはならないという強迫観念から、彼はどうしても逃れられない。1作目において印象的なのは、ヒーローをやめて保険会社に勤務していた夫が、問題を起こして会社を解雇される場面である。彼は、自分が職を失った事実を妻へ告げることができない。大黒柱はあくまで自分だという自負があるのだ。かくして夫は、妻の失望を怖れて、解雇された後も出勤するふりを続けるほかない。「妻に失職を告げられない夫」とは、『フル・モンティ』('97)や『トウキョウソナタ』('08)などの作品にも共通して見られるモチーフである。彼ら男性にとって、職を失い稼ぎのなくなった夫など、あまりに無価値な存在であり、妻にその情けない姿を晒すなどとても耐えられないのだ。だからこそ夫たちは、勤め先などなくとも仕事へ行くふりをしなくてはならない。何と虚しく哀れな習性か。男性らしさへの固執ゆえ、妻が自分より有能であること、妻が世間に活躍の場を見出すことに怖れを感じる。『インクレディブル・ファミリー』がユニークであるのは、女性を抑圧する原因が、男性らしさに固執する心理にあると認めつつ、男性らしさの相対化を目指す点にあるのではないか。


 Mr.インクレディブルは、1作目の冒頭で「何回、地球の危機を救っても、またすぐ危機に陥るだろう。少しは平和のままでいてくれ」と冗談めかして話していた。しかしこの台詞は、男性らしくあることに疲れた者の嘆きであるように思えてならない。世界の危機を救い続けなくてはならない状況とは、男性であることを証明し続ける息苦しさと同意義だ。警察の無線を傍受してまで悪人を倒さずにはいられないMr.インクレディブルは、男性らしさの証明に取り憑かれている。彼と同じ苦悩を、たとえば『シェイプ・オブ・ウォーター』('17)に登場する軍人、ストリックランドの台詞から読み取ることができるだろう。厳しい仕事で常に結果を求められるストリックランドは、ある任務でミスをした瞬間に思わず「いつまで『まともな男』であることを証明し続けなければいけないのか」と口にしてしまう。彼の嘆きは、男性らしくあることを自分に課し、疲労しつつも、その場から降りることのできない者の悲哀に満ちているのだ。彼らの男性らしさに対する強迫観念は、結果として女性を抑圧する原因になってしまっているのだ。


 かくして『インクレディブル・ファミリー』は、女性を抑圧する「男性らしさ」の空虚さを見すえて批判すると同時に、男性もまた「男性らしさ」によって苦しめられる存在であるという広い視点をも備えたフィルムであると言える。イラスティガールの輝きや充実と同様、Mr.インクレディブルが抱える煩悶、嫉妬にも大きな意味が込められている。こうした複雑なテーマが、ファミリー映画の題材として丁寧に描かれ、子どもたちにも伝わる平易さで物語に組み込まれている点にこそ驚かされる。本作を観て育った子どもたちなら、いずれきっといまよりまともな社会が作れるのではないかと期待しているのだ。

■伊藤聡
海外文学批評、映画批評を中心に執筆。cakesにて映画評を連載中。著書『生きる技術は名作に学べ』(ソフトバンク新書)。

■公開情報
『インクレディブル・ファミリー』
全国公開中
監督:ブラッド・バード
配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン
(c)2018 Disney/Pixar. All Rights Reserved.
公式サイト:disney.jp/incredible

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