瀬々敬久×相澤虎之助が生み出した“化け物映画” 『菊とギロチン』が描く民衆の鼓動

荻野洋一の『菊とギロチン』評

 夜の浜辺でふたり、中濱鐵と十勝川関(韓英恵)が焚き火の前で語り明かす。十勝川関は、関東大震災の発生した夜、彼女たち在日朝鮮人たちが荒川の川岸に集められ、拘束され、ある者は日本刀で斬殺され、川岸は足の踏み場もないほど死屍累々となったという忌まわしい記憶を、堰を切ったように語り出す。この酷たらしい記憶の反芻をおこなう韓英恵の鬼気迫る恐怖の表情。

 本作には共同脚本として、『サウダーヂ』『バンコクナイツ』で知られる映画製作集団「空族(くぞく)」の相澤虎之助が参加している。史実の絵解きに終わらせまいとする瀬々敬久監督の意図が伝わる起用だ。瀬々監督によれば、相澤の参加によって南国志向、音楽的側面の拡大がより強まったとされる。大正時代なのにアフリカンドラム(ジェンベ)が女相撲の浜辺踊りに登場したり、韓国のサムルノリが使用されたりと、音楽性の拡大は時代考証を逸脱し、普遍的かつ荒唐無稽な民衆の鼓動として時空間を跳梁跋扈する。

 普遍的かつ荒唐無稽なのは、ジェンベやサムルノリだけではない。女相撲からしてすでに日本固有の伝統やら格式やらから逸脱した、普遍的かつ荒唐無稽な自由空間として仮構されたのではなかったか。女性たちを土俵に上げ、相撲を取らせた記録は古くは奈良時代、雄略天皇の在世にまで遡るらしい。最近、大相撲春巡業で起きた問題は記憶に新しい。救命措置のために土俵に上がった女性医師が土俵から下りるよう場内アナウンスで注意されたという一幕によって巻き起こった「人道か、伝統か」の二者択一的議論が、昨今の戦前回帰、国家主義回帰の傾向と相まって大きくなったと思われる。ところがこの『菊とギロチン』では、震災翌年の日照りで困窮した大地主(嶋田久作)が、神の怒りを買って雨を降らせてもらおうと、女相撲の興行を招聘するというシーンがある。そしてめでたく雨となり、嶋田久作のしてやったりの微笑(「神様が怒って下さったな」)は、本作における最も楽天的なカットとして記憶に残るだろう。その雨が目と鼻の先で隣り合わせに、悲劇のぬかるみともなっていくわけでもあるが。

 本文冒頭で、化け物的な映画とはすなわち長尺の映画である、などとじつにバカバカしい定義をいきなり披露して、読んで下さる読者の皆様を辟易とさせてしまったが、もうすこし真面目な定義を付け足すとすれば、化け物的な映画とは、それがいかに男女の愛のもつれだろうと、人間の愚かな所業のなれの果てであろうと、そこに化け物が写っているということだ。ホロコーストやディストピアを引き起こす人類という化け物。これは私たち自身が心がけによって退治されねばならない化け物。そしてもうひとつは、より悲しい化け物だが、運命という名の化け物。アナーキストと女相撲の邂逅が、ほんのつかの間の蜜月に過ぎないこと、永遠に連帯し続けられないこと。これらは愛という名の委員会だった。委員会はいつか解散する。運命という化け物をどう受け止め、化け物としての自分をどう生きるか。『菊とギロチン』は、この映画史で延々と問われてきた問いに、化け物にふさわしい不敵な笑みと共に相対しようとしている。

■荻野洋一
番組等映像作品の構成・演出業、映画評論家。WOWOW『リーガ・エスパニョーラ』の演出ほか、テレビ番組等を多数手がける。また、雑誌「NOBODY」「boidマガジン」「キネマ旬報」「映画芸術」「エスクァイア」「スタジオボイス」等に映画評論を寄稿。元「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」編集委員。1996年から2014年まで横浜国立大学で「映像論」講義を受け持った。現在、日本映画プロフェッショナル大賞の選考委員もつとめる。

■公開情報
『菊とギロチン』
テアトル新宿ほかにて公開中
監督:瀬々敬久
脚本:相澤虎之助・瀬々敬久
出演:木竜麻生、東出昌大、寛一郎、韓英恵、渋川清彦、山中崇、井浦新、大西信満、嘉門洋子、大西礼芳、山田真歩、嶋田久作、菅田俊、宇野祥平、嶺豪一、篠原篤、川瀬陽太
ナレーション:永瀬正敏
配給:トランスフォーマー
2018年/日本/189分/カラー/シネスコ/DCP/R15+
(c)2018 「菊とギロチン」合同製作舎
公式サイト:http://kiku-guillo.com/

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