『火垂るの墓』『この世界の片隅に』は“反戦映画ではない”のか 高畑勲監督の発言などから検証

『火垂るの墓』は“反戦映画ではない”のか

「異常」が「正常」になった世界を描く

 1956年、政府による『経済白書』のなかで「もはや戦後ではない」という言葉が記され、日本はもはや戦後復興期ではなく、経済的飛躍の時期に入ったという意味の主張がなされた。小説『火垂るの墓』が発表されたのは、それからすでに10年ほど経った1967年である。作家・大佛次郎(おさらぎ・じろう)が、直木賞を受賞した『火垂るの墓』、『アメリカひじき』の選評のなかで、「裸の現実を襞(ひだ)深くつつんで、むごたらしさや、いやらしいものから決して目を背けていない」と語っているように、映画『火垂るの墓』は、それを再現したあまりにも悲惨な場面から始まる。

 日本の敗戦後間もなく、神戸三宮駅構内で、浮浪児となった清太が下痢便を垂れ流しながら衰弱してゆく。動けなくなった清太を、行き交う人々は「わあ、きたない」「死んどんのやろか」「アメリカ軍がもうすぐ来るいうのに恥やで、駅にこんなんおったら」と口々につぶやく。駅務員は構内の清掃のために、清太を含めた浮浪児たちが死ぬのを待っているように見える。

 児童福祉という観念が、この時代、この場所では全く機能していない。大人たちが瀕死の子どもたちを見殺しにする光景は異常だ。そして、彼ら浮浪児は「恥」であり、早いうちに死んで、目の前から消えてほしいとすら思っている大人もいるのだ。親を失った清太と節子を引き取った親戚のおばさんも、次第に2人を疫病神として扱い、虐待とすらいえる酷薄な仕打ちをする。

 重要なのは、これら異常な出来事は、戦中・戦後すぐの時代の日本人の感覚においては、むしろ「正常」になってしまっているということである。だが高畑監督は著書において、「親戚のおばさんを見て、今の若い人は『ひどい』と思うだろうし、清太があの家をとびだす気持ちに全面的に共感するはずです」と語っている。つまり高畑監督は、これらの陰惨なシーンが、戦争を知らない世代の人にとって「異常なもの」として捉えられるだろうことを想定しながら作品を作っているということになる。そして公開当時、たしかにそのような読みは的を得ていたはずなのである。

責任を受け渡す日本的ゲーム

 たしかに清太が親戚のおばさんの機嫌をとり、いじめに耐え抜いていれば、妹を救えた可能性は高い。結果から考えればそうすべきだったのだろう。しかし清太は、日本が戦争に勝利し、戦地にいる父親が帰ってくることを信じ、それまでの苦労だと思って節子の面倒を一人で見ようと頑張っていたはずだ。しかし日本の敗戦を知り、父親の戦死を確信したときには、すでに節子は手遅れの状態になっていたのだ。その後、清太が一人で親戚を頼ることをしなかったのは、節子に対する罪の意識があったためであろう。

 ここで発生する節子に対する清太の罪悪感が、事態を複雑化している。客観的な目でみると、清太は盗みを働いてまで妹を救おうと、十分以上に手を尽くしている。その一方で清太個人が自分の選択を後悔し、節子の死に責任を感じるのも無理はない。それは人間一人ひとりの心の問題だ。しかしその罪をあえて社会的な俎上に上げて観客が問おうとするのならば、戦時中に日本の勝利を謳っていた政府や大人たちの責任もまた同時に問わねばならなくなる。自己責任論から与えられる強烈な違和感というのは、一方の「罪」を無視しながら、清太が感じた「罪」だけを取り出して、それを糾弾しているからである。

 敗戦後、内閣を組織した皇族の陸軍大将・東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや・なるひこおう)は、「一億総懺悔(そうざんげ)」を主張して、日本国民による政府への戦争責任追及から逃れようとした。その一方で、日本国民が全くの被害者で、一片の責任もなかったかといえば嘘になってしまうだろう。政府の責任に準じて、そのときに政治参加が可能であったにも関わらず戦争を止められなかった大人たちにも、被害を受けた子どもたちや、他国へ対して責任があったはずだ。

 駅で浮浪児が自然に死んでいくのを待っている大人たちは、自分たちの罪の象徴である子どもたちを見たくないと思っている。そして自分たちが糾弾されたくないから、責任を誰かに押し付けようとする。それはトップからリレー形式で次々に弱い者へと受け渡されていくという日本的ゲームだ。最終的にその責任のバトンを受け取り責任をとらされるのは、ときに被害者自身になってしまうこともある。「自己責任」という言葉が使われるときに注意しなければならないのは、それが誰か他の人間の責任を隠すために機能している場合である。

『この世界の片隅に』を取り巻く「空気」

 ここで一時、片渕須直監督の『この世界の片隅に』に話を移したい。この作品の主人公、“すず”は、おっとりとした夢見がちな性格で、望まれてよく知らない男と結婚してしまうように、実際的な生活については、周囲の空気に流されて生きている。だが、天皇が自身の声によって敗戦を伝えた玉音放送を聴いたときに、「最後の一人まで戦うんじゃなかったんかね!」と、柄になく大声をあげて怒る。はじめて彼女は国の無責任さに愕然として、さらには自分が戦争について深く考えてこなかったことを知ることになる。それ以前の様々な“楽しい”描写について、「戦中の時代も楽しさがあったじゃないか」という意見を述べるのであれば、この終盤における、すずの価値観の大転換も含めて言及しなければならないはずである。

 すずはボーっとした性格なので、国民学校の生徒の大勢がそうだったように、ここに至るまでその事実に気づくことができなかった。しかし本質的な意味では、程度の差こそあれ、当時の日本人の多くが、このフワフワとした「空気」の中で、状況に流されていたのではないか。

 NHKスペシャル『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』において、経営学者・菊澤研宗は、戦争へと突き進んだ日本の中枢にいた、当時の官僚あるいはエリートたちの、組織内での心理状況について、こう分析している。

「初めから『空気』があるわけがない。どちらかというと、自分自身が空気をつくり出したのだと思います。一人ひとりが常に損得計算をしています。これはいわないほうが得だとか、抵抗しないほうが得だという結論に至り、みんなで沈黙しているだけなのです。独裁者が『この方向にいく』といったときに、その方向に進めば組織がダメになることがわかっていても、一人ひとり損得計算してみたらそれをいわないほうが得だという結論で一致し、沈黙に導かれる」

 戦争に進ませた「空気」の正体とは、まさにこれのことであろう。そしてエリートのみならず、政府の強制の下で一般市民の多くも、意識的であれ無意識的であれ、この種の空気を生み出してしまったように思える。

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