荻野洋一の『甘き人生』評:巨匠マルコ・ベロッキオが描く“苦い”夢

荻野洋一の『甘き人生』評

 墜落する。落下する。この垂直運動が、画面内にたびたび散見される。先にも述べたように、少年時代のマッシモはナポレオンの胸像をベランダから落として騒ぎを起こすのだし、サッカーボールを室内でリフティングしていて、玄関の宗教的なレリーフを落として割ってしまう。記者となったマッシモがローマ市内で出会う女性精神科医エリーザが飛び込み台からダイビングする光景を、マッシモはプールサイドでなすすべなく見つめるしかない。

 ママの投身自殺、トリノFCの全盛期(いわゆる「グランデ・トリノ」)の記憶が垂直性への恐怖に結びつき、マッシモの空想は恐怖映画をママといっしょに見た記憶に結びつける。『カリガリ博士』、『キャット・ピープル』、『吸血鬼ノスフェラトゥ』のホラー的イメージが散りばめられ、彼の守護神はつねに怪人ベルファゴールだった。ベルファゴールは彼の精神の奥深くに滞留している。彼は垂直運動が突きつける恐怖への対抗措置として、滞留を心ならずも選ぶ。1999年に父親が死に、アパートメントの売却を決心した彼は、依然として部屋にナポレオンの胸像コレクションやら、母親が切りぬいたスター写真のスクラップ帳やらが滞留していることに気づいて、呆然となる。落下を忘れるために、物はひたすら溜まっていくのだ。記者である彼が読者投稿への回答者として書いた返信記事が市民の感動を呼び、彼のデスクの上には新聞読者からのファンレターがうずたかく溜まっていく。

 大人になったマッシモがアパートメントに来たとき、ベランダの向こうには依然としてスタジアムが見える。しかし当時(1990年代)、スタジアムはすでに使用されなくなって数年が経過し、廃墟としての静かな時間を過ごしていたことを知っておくべきだろう。1990年のイタリアワールドカップ以降、ユヴェントスもトリノFCも、ワールドカップのために郊外に新築された7万人収容のスタディオ・デッレ・アルピに移転していた。スタジアムという巨大建造物が打ち捨てられたまま、すぐそこに廃墟として現前し続けたという現実こそ、主人公を取りまく滞留の象徴だと言えるだろう。ちなみに、交通の便の悪さや冬の寒さ、霧の濃さで非常に不評だったデッレ・アルピはたった15年しか使用されずに取り壊され、トリノFCは2006年、主人公宅の目の前のスタディオ・オリンピコ(かつてのスタディオ・ベニート・ムッソリーニ)に戻って、ホームゲームを主催している。

 「良い夢を」と息子の耳元でささやいて逝ったあの晩の母親の心情を、愛する我が子を案じながらも自ら命を絶った母親の無念を、息子のマッシモが真に理解する日は来るのだろうか? 彼は母の不在という精神的危機と戦い続け、それを克服してきた。しかし、母親から棄てられたという観念からはついに脱却できていないように思える。反抗的な態度をとる少年時代のマッシモに、カトリック系私立学校の教師である神父が諭すように語る「君に必要なのは“もしも”ではない。“にもかかわらず”だ」という言葉は、すべての映画観客の胸を打つだろう。神父は次のように続ける。「自分が不幸な目に遭ったにもかかわらず、自分の母が自分を置いて死んだにもかかわらず……」と。その先の「……」を埋めるのは君のなすべきことだと。スタディオ・ベニート・ムッソリーニの観客席にギュウギュウ詰めに埋まってチャントを唱和するサポーターという経験をしたことを手始めに、マッシモは空虚を物という物で埋めてきた。そうしてかろうじて孤独を手なずけて生きる術を体得していったのである。

 「良い夢を」という、死の直前に母親がかけた呪文と、これからもずっと彼は対峙し続けるだろう。「良い夢」と悪夢はほとんど同じものではないかという疑念が、長年にわたる彼の偽らざる気持ちだと思う。アパートメントの残留物を見て呆然となる主人公は、あの幸福だった9歳のボクに戻っていく。ボクとママはアパートメントで鬼ごっこしている。数を数え終わったボクはママを探すけれど、ママが見当たらない。不安になったボクは思わず「もう楽しくなくなっちゃったよ、ママどこなの?」と訴える。……母親はクローゼットの段ボールの中で息をひそめて、息子の泣きべそを聞いている。クローゼットの中にはまだまだほじくり出せばキリがない滞留物が溜まっていることだろう。マッシモは、その滞留夢という牢獄に囚われている。しかし、そこから真に脱却できる人、あるいはしたいと心から考える人は、どれほどいるのだろうか?

『甘き人生』予告編

■荻野洋一
番組等映像作品の構成・演出業、映画評論家。WOWOW『リーガ・エスパニョーラ』の演出ほか、テレビ番組等を多数手がける。また、雑誌「NOBODY」「boidマガジン」「キネマ旬報」「映画芸術」「エスクァイア」「スタジオボイス」等に映画評論を寄稿。元「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」編集委員。1996年から2014年まで横浜国立大学で「映像論」講義を受け持った。現在、日本映画プロフェッショナル大賞の選考委員もつとめる。

■公開情報
『甘き人生』
ユーロスペース、有楽町スバル座ほか全国順次公開中
監督:マルコ・ベロッキオ
脚本:バリア・サンテッラ、エドゥアルド・アルビナティ、マルコ・ベロッキオ
出演:バレリオ・マスタンドレア、ベレニス・ベジョ、バルバラ・ロンキ、グイド・カプリーノ、ニコロ・カブラス
原題:Fai bei sogni
イタリア/2016年/130分
配給:彩プロ
Fais de beaux reves (c) Simone Martinetto 3
公式サイト:http://www.amakijinsei.ayapro.ne.jp/

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