『ハクソー・リッジ』は戦争を題材にしたヒーロー映画だ メル・ギブソンが再現した地獄の戦場

『ハクソー・リッジ』“地獄の戦場”の意味

主人公は完全無欠の英雄なのか

 タイトルの「ハクソー・リッジ(のこぎり崖)」とは、米軍が名付けた、前田高地の切り立った崖のことである。この地帯は天然の要害であり、日本兵は沖からの艦砲射撃を避けつつ、崖を登りきった前線の米兵に一斉攻撃をかけることで、何度も撃退し敗走させているのだ。負傷して崖を降りられなくなった米兵は、座して殺されるのを待つのみだった。ドス衛生兵は、そんな彼らを故郷に生きて帰すために、危険をかえりみず、過酷な環境の中で負傷兵を何人も何人も探し出し、崖下に降ろしたのだ。いままで彼を変人だとしてつらくあたっていた部隊の仲間たちが、その行為に心打たれ、武器を持たないドスを援護するようになるところが感動的である。

 負傷兵を救ったドスの行為が偉業であることは確かだと思える。しかし、「武器を持たず人を殺さない」という、自分に課した崇高なルールを守りながらの救出行為が、仲間の援護射撃で周囲の敵兵を殺害することによって効率化し、連携プレーが常態化してくると、少なくとも映画の描写においては、それが「ヒーロータイム」演出によって、一点の曇りもなく持ち上げられるべき英雄的行為なのかという部分で、いささかの疑問を感じてしまう部分もある。

 例えば監督がスティーヴン・スピルバーグ監督であったなら、戦闘行為でのドスの行為の矛盾点から葛藤を作り出し、さらに深いドラマを描きながら、その上で彼を英雄として描けたのではないだろうか。また、本作で主演を務めるアンドリュー・ガーフィールドが、同じように日本で宗教的な苦悩をする人物を演じた『沈黙ーサイレンスー』が、宗教的葛藤によって、テーマの中でダイナミズムを作り出していたことを考えると、本作でのドスの描き方は、葛藤をすでに過去の時点で乗り越えたことになっていることもあり、全体としては単調に感じてしまう。イノセントでヒロイックな面を強調し過ぎるあまり、細かな違和感が逆に際立っているように思える。

 もう一つ考えなければならないのは、意図的に史実の一部を排除している点があることだ。例えば、米軍と日本の軍の間の圧倒的な兵力差というのは、画面からも劇中のセリフからも伝わりづらくしてあるように感じられる。また現在、沖縄の浦添市は、WEBページで当時の前田高地を含む浦添村の死者のデータを詳細に公開しているが、それを確認すると、村の約半数の住民が亡くなっていることが分かる。一家全員が亡くなった割合を見ても、その死者の中に、女性や老人、子どもがいたことは確実である。本作はハクソー・リッジ周辺にあったはずの、弱者の死には触れていないのだ。

 もちろん、本作はハクソーリッジでの戦いそのものを描いているので、それを描く必要はないという意見もあるかもしれない。だが、本作で描かれた砲撃や住居の占拠の結果起こったであろう、無力な人々の悲劇を描写することは、ドラマを描く上で不自然なことではないように思える。実際に、『フルメタル・ジャケット』や『地獄の黙示録』をはじめ、多くのアメリカの戦争映画では、負の側面を扱うことは、むしろ常道であるといえる。それらを描くことに消極的だというのは、ドスを英雄として描く上で、障害となる部分だからなのだろう。つまり、本作は戦争映画というよりは、戦争を題材にしたヒーロー映画なのだと考えられる。

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