菊地成孔の『アズミ・ハルコは行方不明』評:「若い映画」なのか、「そんなに若くない映画」なのかはっきりしてくれよ

煩悶を快楽に変える。という、かなり誘惑的なハイスキルを持っている者=真犯人が存在している

 それは、原作者の山内マリコ氏に他ならない。本作で絶対安全圏にいるのは彼女ただ一人だ。

 原作者が映画化に際して絶対安全圏に設置されるのは構造的でもあり、本作における山内氏を石もて打つことは出来ない。しかし、山内氏の、天性の誘惑者としてのハイスキルぶりは、誰にもそう(ハイスキル)は思わせない。というスキルまで包括することで、悪徳にさえほど近い能力であると言えるだろう。

 筆者は、この発言すら「うふふふふ。菊地さんったら、面白いこと言いますね(因みに知己がある。後述する)」と流してしまうことを予見した上で、はっきりと批判的と言って良い言葉を使っている。安全圏内にいる者に向かっての行使できる、例外的な行動といえるだろう。

 と、いきなり映画批評から大きく逸脱するが、重要な状況証拠として提出させていただきたい。筆者は、山内マリコ氏と対談したことがある。

対談の模様(挿話に過ぎないが重要)

 『ここは退屈迎えに来て』という作品のカリスマ性は不当なものではない。未読の方もいるだろうし、筆者が独断を以て簡単にまとめてしまうのは、少なくとも本稿の役割を超えているが、敢えて書くならば、それは

 「気が付けば東京と地方の差は、20世紀よりも大きくなり、特に土地に縛られる被拘束力を被りやすい女性にとっては、具体的な意味さえ超え、象徴的、観念的な意味さえ持つほどになっている。そして彼女たちの脱出=救済への祈りは男性社会からは黙殺されている」

 という、かなりガチンコのフェミニズムとも言えるものである。

 ところが、山内氏は、あくまで客観性のみで切ってしまえば典型的なダブルクロス(裏切り者)であり、筆者は仕事柄、女優、女子アナウンサー、アイドル、女性アーティスト、女性作家、女性評論家、女性の学者、等々、あらゆる業種の女性と接する機会があるが、山内氏は間違いなく上位に入る(一応、念のため、列記した全業種合わせて。である)美貌と服飾センスを有している。氏は「(いろいろな意味で)選ばれない人」ではない。典型的な「選ばれる人」であって、『ここは退屈~』は、相当チャラいとするか、あるいは東大卒の人物が「学歴なんか関係ない」と力説する類の小説であるとしないと合点がいかない。

 勿論、綺麗でお洒落というだけで無条件に選ばれるならフェミニズムなどという学問はいらない。単に綺麗でお洒落であることは、呪詛や賛美の対象になるとしても虚しい。

 綺麗でお洒落な上に、山内氏は、対男性にも対女性にも打ち分けられる誘惑者としての高い才能を有している。同性にも異性にも崇拝者がいるというのは、度を越した善良さか、度を越した悪徳さの上にしか立脚しない。

 その論証をつぶさに行うと本稿は文字数が3倍になるので、最小限のことに留める。新宿伊勢丹という、お洒落の特権階級が集うサロンの地下1階で行われた対談で、筆者は山内氏の誘惑者としての実力を計測するために

「いやあ、山内さんって本当にお洒落ですよね。名前は出せないけど、あそこのワンピースでしょそれ」

とジャブを出したところ、

「そうですね(笑)、名前は言えないけど(笑)、でもお、結構、縫製とか雑なんですよお」と笑顔を敢えて一瞬消し、軽く憂鬱な表情、を見せてから、

「ほら、こういうとことか、こういうとことかあ、結構ほつれるの早いんですよお」

 と言って、袖と、胸元と、スカートの端を「ほら、ここです」とばかりに、(以下が非常に重要なのだが)筆者にしか見えない角度で、全いやらしくない程度にごくごく軽くめくって見せ、筆者の目を見た後、笑顔に戻った。

 こういうことが、まるでテレビのリモコンをつかんでチャンネルでも変えるように、一瞬で平然とできるスキルがある人間が、天然であれ、養殖であれ、絶対安全圏から追い立てられるわけがない。

 山内氏は、非常にシンプルに言えば東京で金持ちと結婚した。しかし、「ここは退屈迎えに来て」というのは、「誰も迎えに来てはくれない」という、結構な絶望によってしか立脚しえない文学性であると信じて崇拝している人々が数多いはずだ。

 対談は、氏の新作エッセイ『買い物とわたし お伊勢丹より愛をこめて』という、簡単に言うと買い物自慢の本のPRだった。しかも、対談中の氏の発言によれば、だが、©にうるさい伊勢丹に対し、「お伊勢様参り」という洒落を契機に、なんと事後承諾で伊勢丹の名前を冠し、そんな事で通るのか? と思いきや、対談の最前列には伊勢丹の関係者がいて、どちらかというとうっとりと山内氏を見つめている。要するに無許可で全然オーケーなのである。

 しかも、そのエッセイ集は連載ものをまとめたもので、連載の途中で結婚した山内氏は、その本の最後で、「もう、(銀座が生活圏になったので)松屋専門になり、伊勢丹に行くこともほとんどなくなってしまったんですけど(笑)」と、いけしゃあしゃあと(笑)書き / 言いながらにして、伊勢丹の関係者を大喜びにさせたのである(対談後、伊勢丹関係者は山内氏を取り囲み、セルフィ―撮りを始めた)これを誘惑の天才と言わずしてなんと言えば良いのか。

挿話終わり、批評に戻る

 「ここは退屈迎えに来て」という絶望を口にしながら(筆者の考えでは、「絶望は口にしていない」のだが)、実際に素敵な男性が迎えが来て、銀座周辺に居住し、おしゃれで綺麗な作家/ エッセイストとして、女性からも崇拝されるという、かなりのダブルクロスを演じて小石も卵も投げつけられない、天性の絶対圏内居住者(これは単に悪女とかビッチとか、俗にいう「人誑し」といった事とは微妙に違うのだが、本稿のターゲットが原作小説に向いてしまうので詳述は稿を改めるか、あるいは腹にしまう)である山内氏の原作小説『アズミ・ハルコは行方不明』は、意欲的とはいえ、穴だらけである(その穴は、氏の崇拝者によって制作された本作に、まるまる移譲されている)。その穴をつぶさに指摘するのは、すでに長文化しているのでやめるが、前述の指摘8番が、原作直系の一つである。

 あまりによくあることだ。誰か迎えに来てと言ったら実際に迎えが来ちゃったんだから、筆が鈍る、などということは一般的ですらあり、良い悪いは別として、単に、断罪は読者、作家、批評家、編集者を含めた文学界全体が行えば良いし、文学界が氏をどう裁いたのかは筆者は知らない。無責任な予想を言えば、無罪放免に近いはずだ。

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