“家族のつながり”の危うさが浮き彫りに 『淵に立つ』がもたらす、異常な緊張感の正体

『淵に立つ』が描く人間のおそろしさと希望

 本作の監督、深田晃司による小説版「淵に立つ」では、映画で曖昧に描かれていた部分が、分かりやすく説明されている箇所もある。映画の冒頭では、メトロノームのリズムに合わせ鈴岡の娘がオルガンを演奏するが、メトロノームとオルガンの関係について、小説版では、ある存在が別の存在とリズムを合わせるということが、人間同士の関係を暗示しているというような記述がある。つまり、映画の冒頭とラストで対比されている「リズム」は、彼ら家族の関係について表しているのだということが分かる。ここで描かれる家族の新たなつながりは、ある種の希望でもあり、また悲劇でもある。この後味の悪い両義性が、本作をただならぬものにしているのは間違いない。

 深田晃司監督の前作は、彼自身も演出家として所属する「青年団」主宰の平田オリザによる、アンドロイドに演技をさせる演劇作品「さようなら」の映画化作品だった。そこで描かれるアンドロイドと人間の交流は、非常にぎこちないが、だからこそ人間同士の常識の枠に収まらない、もっと根源的なやりとりがなされているように感じられる。

 『淵に立つ』に異常なまでの緊張感を感じるのは、描かれる人間のコミュニケーションが、『さようなら』同様に、日本社会が持っているような社会通念や約束事の外にあるからだろう。シチューやカレーのテレビCMの表現に代表される「家族の団らん」のような共通認識は、ここでは全く通用せず、ひたすら寒々しい家族の食卓の光景が冒頭で描かれる。だから、彼らの発する言葉や行動はいちいち、一歩間違えるとどうなってしまうか分からない、むき出しの怖さがある。夫婦は最初から夫婦でなく、家族は最初から家族ではない。しっかりと相手と向き合って、適切な言葉で語りかけることからしか、人間の関係も家族の関係も始まらないのだと本作は主張する。メトロノームとオルガンは、合わせようと努力しない限り、決して合うことはないのだ。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト

■公開情報
『淵に立つ』
10月8日(土)より有楽町スバル座、イオンシネマほか全国ロードショー
脚本・監督:深田晃司
出演:浅野忠信、筒井真理子、太賀、三浦貴大、篠川桃音、真広佳奈、古舘寛治
配給:エレファントハウス
英語題:HARMONIUM /2016年/日本・フランス/日本語
主題歌:HARUHI「Lullaby」(Sony Music Labels Inc.)
(c)2016映画「淵に立つ」製作委員会/COMME DES CINEMAS
公式サイト:fuchi-movie.com

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