『君の名は。』の大ヒットはなぜ“事件”なのか? セカイ系と美少女ゲームの文脈から読み解く

『君の名は。』大ヒットはなぜ“事件”か?

『君の名は。』の美少女ゲーム的構造

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 ぼくが『君の名は。』を試写で観たときの第一印象は、これは「セカイ系や美少女ゲームといった自らの作家的出自に自覚的に回帰している」と同時に、「それ以降の時代の変化にもうまく乗っている」作品だというものでした。どういうことか。

 まず、『君の名は。』の物語構造や映像表現は、それ自体きわめて「(美少女)ゲーム的」だといえます。たとえば、それは映画の冒頭部分のシークエンスから如実に窺われる。最初にざっと要約すれば、『君の名は。』は、田舎に住む女子高校生・宮水三葉(上白石萌音)と都会に住む男子高校生・立花瀧(神木隆之介)が、時空を超えてかれらの夢のなかで起こる「身体の入れ替わり」からはじまる、いっぷう変わったジュブナイル・ラブストーリーです。時間的にも空間的にも遠く離れたふたりの主人公は、眠っているあいだにおたがいの身体が入れ替わってしまうことに次第に気づきはじめますが、目覚めるといつも、入れ替わっているあいだの記憶はなくしてしまう。

 さて、主題歌とアヴァンタイトルの出たあと、映画はまず、まさに身体が三葉に入れ替わって目覚める瀧を描きだします。二階の自室で朝日にぼんやりと目を開けて起きあがってから、パジャマの下で膨らんだ見馴れない胸元を見降ろすPOVショットが入る。その後、身体が入れ替わっていることに気づいて驚く一連の様子が展開されるのですが、続いて制服を着た三葉が下階の祖母と妹が朝食を食べている居間に降りてくる。ショットは連続しているので観客は最初勘違いするのですが、「お姉ちゃん昨日おかしかったよ」という妹の台詞が入るので、そこは記憶が失われて三葉が自分の身体に戻ったあとの場面だということがわかります。いずれにせよ、以上の冒頭シークエンスのつらなりにも象徴されるように、『君の名は。』の場面展開は総じて、三葉や瀧ら登場キャラクターのいずれかひとりの視点=意識から捉えられた、きわめて「主観的」なショットのみで構築されているのです。これはたとえば、ファンタジー嫌いで知られ、作品のあらゆるシークエンスを徹底して「三人称客観ショット」のみで構成しようとするリアリスト・高畑勲のアニメーションとは対照的な志向でしょう(高畑は新海作品には否定的なはずです)。

 そして、いうまでもなくこの演出は物語のキーポイントである三葉と瀧の身体の入れ替わりにかかわるいわゆる「記憶喪失」のモチーフとも密接につながっています。たとえば、物語評論家のさやわかは、この記憶喪失の主題について、「アニメ」というジャンル特有の図像の記号性に注目して論じていました(「ぼくたちはいつかすべて忘れてしまう」、『ユリイカ』9月号所収)。しかし、ぼくの考えでは、この場合にむしろ類比すべきなのは、どちらかといえば、ほかならぬ「美少女ゲーム」のシステムのほうだろうと思われます。

 さきほども述べたように、美少女ゲームや乙女ゲームを含めたノベルゲームの構造とは、視点プレイヤーの主観ショットから見た画像がディスプレイに表示され、プレイヤーは、背景画のうえにイラストで登場する複数の異性キャラクターとのそれぞれ恋愛ルートを分岐ごとの選択肢を選びながら楽しみ、恋愛が成就(「攻略」)すれば「トゥルーエンド」、失敗すれば「バッドエンド」という結末にたどりつく。その過程でプレイヤーのリニアな物語は何度も「リセット」され、事実上どこまでもループしてゆくというゲーム特有のノンリニアな構造をもっています。

 この、プレイヤーと作中キャラクターの視点が構造的に分離し、遡行的に見いだされる複数の「可能世界」=「世界線」のあいだをループ的/並行的に移行するという物語表現やリアリティは、東浩紀が「ゲーム的リアリズム」(『ゲーム的リアリズムの誕生』)と呼んだもので、ゼロ年代以降、国内外問わず、非常に流行しました。日本のオタク系コンテンツの文脈でいえば、ハリウッド映画にもなったライトノベル『All You Need Is Kill』(04年)や、これも社会現象にまでなったライトノベル『涼宮ハルヒの憂鬱』(03年)、細田守監督のアニメ映画『時をかける少女』(06年)、そして新房昭之監督のアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』などいくつも挙げられます。また、これに関連してゲーム的なリセット=記憶喪失の物語も、同時期に数多く作られました。大ヒットした韓国恋愛映画『私の頭の中の消しゴム』(04年)が典型的ですが、たとえば、『君の名は。』では入れ替わり中のことを忘れてしまう主人公たちがたがいの顔や手に文字でメッセージを書いて伝える姿が描かれていますが、これなどはクリストファー・ノーラン監督の『メメント』(00年)を思い起こさせる細部でしょう(この「表層性」がいかにも「アニメ的」だという解釈も可能でしょう)。

 また、こうした「記憶喪失的」な主題は、作中でほかのところにも認められます。たとえば、三葉の生家である宮水神社で執り行われる豊穣祭の舞いの由来が、はるか昔に起こった大火のためにいっさい失われてしまい、いまは「形だけしか残っていない」のだと説明される設定もまた、いかにも「記憶喪失的」です。また他方で、後半のクライマックスのなかで、三葉が赤い組紐をカチューシャふうに結びなおすシーンが出てきますが、そのルックはぼくの世代のオタクが見ると、おそらくどう見ても涼宮ハルヒを思いだすでしょう。いわばここにもゲーム的構造をもった先駆作『ハルヒ』に対する隠れた目配せが示されているといえなくもありません。

「原点回帰」となった作品

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 いずれにせよ、もうおわかりのとおり、『君の名は。』の物語とは、いわばプレイヤーが感情移入すべき作中キャラクターから見た「可能世界」(世界線)が一回ごとに「リセット」されて幾度もループし続ける、ノベルゲーム的な構造を如実にそなえているといえます。さらにこの見立ては、物語の後半と結末で、瀧が糸守町に軌道を外れたティアマト彗星が落下して町民もろとも死んでしまう運命にあった三葉を、時空を超えて救いだすという展開にそのままつながってゆくでしょう。いわば『君の名は。』とは、ゲームプレイヤーが、ヒロインが死んでしまうという「バッドエンド」の可能世界(ゲームルート)から何度もリプレイを繰りかえして、ふたりが生きて再会する「トゥルーエンド」にいたるまでのゲーム空間だとみなせるのです(こうした想像力は、たとえば今年の「SMAP解散騒動」の謝罪会見でもネタにされたように、かなり一般化しています)。ついでにいうと、『君の名は。』に見られるこれらのゲーム的特徴は、今回、いたるところで新海との交流がフィーチャーされている岩井俊二の作品にも共通しています。じつはこれは拙著『イメージの進行形』(人文書院刊)でもすでに書いたことなのですが、岩井もまたテレビドラマ『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』(93年)や映画『花とアリス』(04年)など、きわめて「美少女ゲーム的」な構造やモチーフをともなった作品を手掛けているのですね。また、ほかにも岩井と新海は、逆光表現を多用した繊細な映像表現や、音楽の効果的な使い方、あるいはかたや「ミュージックビデオ」、かたや「パソコンゲーム」と、「映画」や「アニメ」とは異なる分野から進出し、成功を収めたという経歴でも共通しているところが多い。

 とはいえ、『君の名は。』はゲーム的、というよりもやはり、あくまでも「美少女ゲーム」のジャンル的記憶を濃厚に背負っているようにぼくには思われます。たとえば、三葉が妹から自分の作った口噛み酒(Twitterでさっそくネタにされているように、この設定自体、なかなかエグいものがありますが……)を売ればいいんじゃないとからかわれた瞬間に、彼女の脳裏に浮かぶいわゆる「JKビジネス的」な広告イメージを挿入する演出などは、少なくともたんなる「爽やか青春ラブストーリーアニメ」という定型からははみだした要素を感じます。『君の名は。』において新海は、だれもが安心して観られるようなファミリー向け作品を志向するジブリや細田アニメならば排除するであろう、セクシャルな演出をあえて避けずに取りこんでいるわけです。

 ともあれ、『君の名は。』をその深部で規定しているのは、新海がその出自としてもっている、ゼロ年代の美少女ゲームのジャンル的想像力だといえると思います。しかも他方で、はるか上空から飛来する巨大な彗星群が、親密でありながらも遠く隔たった場所にいる一組の少年少女の――とりわけヒロインの――運命を引き裂き、かれらのいる「世界の危機」を救うべく主人公が奮闘して成長してゆく――以上のような『君の名は。』の物語は、これも述べたとおり、『星の追う子ども』(11年)、『言の葉の庭』(13年)といった近年の作品とは異なり、明らかにかつての「セカイ系」と呼ばれた初期作品群にふたたび回帰しているともいえるでしょう。その意味で、『君の名は。』は新海が、自身の正統的なアニメ史的文脈からは遠く隔たった特異な創造的出自を意識し、明確に「原点回帰」した作品だということができるのです。

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