『イット・フォローズ』監督、幻の青春映画『アメリカン・スリープオーバー』の放つ無償の輝き

荻野洋一『アメリカン・スリープオーバー』評

 青春映画とは、時限付きの映画である。時間制限もなくただダラダラと続く青春映画などロクなものではない。青春は時が限られているからこそ、無償の輝きを放つのではないか。アニエス・ヴァルダ監督の『5時から7時までのクレオ』(1961)はその条件を極端に追求したがゆえに孤高の輝きを得て、青春映画の頂点に達したのだ。ガンの検査結果を待つ女性クレオが、短い休暇をもらった兵士と出逢う。兵士が最後に戦地アルジェリアに旅立つまでのほんの短い時間のうちに、彼らの不安、生と死の揺れ、心と心のふれあいが生み出され——『5時から7時までのクレオ』は、人間の生のはかなさ、そしてかけがえのなさをあまりにも美しく語った、フランス・ヌーヴェル・ヴァーグの真珠のひとつと言っていい傑作である。

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 アルジェリア戦争という世相を背景とする『5時から7時までのクレオ』ほど張りつめた緊張感はないにしろ、『アメリカン・スリープオーバー』はアメリカの青春神話(Myth)の傑作として、後世に名を残すだろう。これといって大事件が起こるわけではない。登場する若者たちは、いまだ何者でもない。彼らの一人が言う。「きょうは人生の終わりの日」と。彼らには、このあと大学に進学したり、社会に出たり、結婚したり、子供を育てたり、たくさんの人生が待っている。でも未決定のうちに揺れることの許された時間は、きょうをもって終わりを告げ、あとは自立した主体として、良き選択を求められていく。揺れたり、停滞したりすることは許されない。

 何者でもない揺れの中の人生の終わりと、選択の人生の始まり——それをはっきり言ってしまうと、死へのカウントダウンでもある——が交差するあわいの時間としての「スリープオーバー」を、デヴィッド・ロバート・ミッチェルは、故郷のクローソンを舞台に万感の思いをもって静かに写し、俳句のように閉じこめた。

■荻野洋一
番組等映像作品の構成・演出業、映画評論家。WOWOW『リーガ・エスパニョーラ』の演出ほか、テレビ番組等を多数手がける。また、雑誌「NOBODY」「boidマガジン」「キネマ旬報」「映画芸術」「エスクァイア」「スタジオボイス」等に映画評論を寄稿。元「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」編集委員。1996年から2014年まで横浜国立大学で「映像論」講義を受け持った。現在、日本映画プロフェッショナル大賞の選考委員もつとめる。(ブログTwitter

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■公開情報
『アメリカン・スリープオーバー』
下北沢トリウッドにて上映中
監督・脚本:デヴィッド・ロバート・ミッチェル
撮影:ジェームズ・ラクストン 
編集:ジュリオ・ペレス4世
音楽:カイル・ニューマスター 
製作:ジャスティン・バーバー他
出演:クレア・スロマ、ジェイド・ラムジー、ニキタ・ラムジー、マーロン・モートン、エイミー・サイメツ、アマンダ・バウアー
企画協力:Visit Films/Gucchi's Free School/前信介
原題:THE MYTH OF THE AMERICAN SLEEPOVER

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