菊地成孔の『ケンとカズ』評:浦安のジュリアス・シーザー/『ケンとカズ』を律する、震えるようなリアルの質について

菊地成孔の『ケンとカズ』評

浦安とは如何なる場所だろうか?

 ご存知の通り、ネヴァダ州ラスヴェガスはネヴァダ砂漠のど真ん中にある人口の楽園であり、周囲には核実験場で有名なネヴァダ砂漠が広がっている。

 本作の第一のリアルは、初めて「東京ディズニーランド」という人口の楽園の周囲を描いたことである。米軍基地のある街とも、昔の屠殺場がある街とも違う。東京ディズニーランドに向かう者たちが全員抑圧している「楽園の外に広がる闇」に何があるか。まだいくつか残っているこの国のタブーのひとつを、30歳の監督は「自分の家の近くだから」という理由で突破した。

 バロウズは言った。「ジャンキーも、プッシャーも、組織も、自然にしていれば劣化する。麻薬自体もだ。それが自然だ」。本作の第二のリアルは、バロウズの金言に忠実であること、それが現実社会と完全にシンクロしていることである。混ぜ物が多く、外国からの密輸ではなく、そこらの工場内で精製してしまう、安物の覚せい剤のマーケットが広がる。多少危険でも、効果が劣化しても、安価さに人は群がる。たったそれだけのことが、この物語をシェイクスピア悲劇にまでスムースに運行する。

「完璧」という状態がもたらす、極度の緊張感と幸福感の同居

 ブレッソン式とは若干違う、とはいえ、「有名な役者の顔は写さない」という縛りは、完全に成功している。大した数ではないと思いながらも、よく考えると結構な数の登場人物たちに、一人も無駄顔はない。演技もそうだ。毎熊克也の見事なゴン太顔自体は珍しいものではない。しかし、「不良がなぜ不良になったか」というフロイド的な、つまり、かなり図式的な設定を、ここまで見事に演技に取り込んだ俳優がいたであろうか?

 アルトマン版「ロンググッドバイ」のエリオットグールドにしか見えない、カトウシンスケの「良い顔」と「良い体つき」ぶり、高野春樹の演技プランとその実行によってもたらされる「恐ろしいほどの不安定さ」は、高野が不安定なのか、高野演ずる藤堂が不安定なのか全く区別がつかない。

 「日本の有名な俳優」達は、演技をしているのだろうか? 蜷川のシャクティパットを失った我が国の「オーヴァーグラウンダーの演技力」に、どれほどの砂金が残されているのか? 筆者は「素人(乃至、「素人に近い俳優」)を使えば、リアルになる」という考えの安易さには否定的だ。しかし、本作は、間違った顔をした者も、間違った演技をしている者も、一人もいない。誰もが映画を見ながら、約束事のようにして、この事を信じたがる。しかしこれは、実際には驚くべきことだ。

 何故ここまで、ある程度は特殊な世界の出来事を、これだけの俳優達が、ドキュメンタリー性の全く無い完全無欠の劇映画で、全員が完璧な演技を遂行できるのだろうか。

浦安のジュリアス・シーザー

 脚本自体は、「さらう」等々のスラングも含め、一貫してリアルではあるが(彼らがスマホ持ちでなく、全員がガラケーを使っているのは、言うまでもないが、貧困や文化的な遅れとかではない)、否、リアルであらばこそ、終結部まで実は大したことは起こらない。不自然な仕掛けも、どんでん返しも、伏線とその回収もほとんどない。彼らの境遇も、浦安という舞台も、ひたすらリアルなだけであって、つまり、驚くべきことはほとんどない。セットされた状態が壊れ始めるのは、前述の「ドラッグカルチャーが劣化に向かう」という定理だけだ。

 そして、そうした「ほとんど何も起こっていないというリアル」の果ての果てに、本作は、多くの有識者が指摘するであろう、シェイクスピア劇や歌舞伎にも似た、高い様式性へと到達する。

 数名の人物の立ち位置、そこを、本作で初めて登場する凶器である、一本のナイフ(厳密には1・5本)が、美しいまでの移動軌跡を見せる。運命の糸に操られるようにして、男たちは計算されたように見事なフォーメイションで刺し合い、殺し合い、一人だけが生き残る。愛なき世界での愛が、蒸せ返るように湧き上がり、交差し、そして、すれ違って行く。歌舞伎の黒子のように。

しかし。である。テーゼは冒頭に戻る。

 異形のエンターテイナーであるG-RAPPERとは真逆に、俳優たちは全員がフェイクである。30歳の監督は一体、どんな 人物なのであろうか? 友人にプッシャーや準構成員がいるのであろうか? それとも、あのフェリーニが「甘い生活」のラストの乱行パーティーシーンについて、「実際私は乱行パーティーなど見たことも聞いたこともなかった」ので「取りあえず、そういう経験がありそうな、パゾリーニに話を聞きに行った」ようにして、誰かに聞きに行き、そしてフェリーニのように「いや自分もそんな経験はない」と一蹴され、仕方なく自分のイマジネーションで埋め尽くしたのだろうか? 筆者は、エンドロールを眺めながら、ただ虚脱していた。それは、90分以上、極度の緊張感が続き、それがクライマックスで、逆方向に振り直された事に依る。「最後の、ジュリアス・シーザーの幕」は、一見、そこまでのリアルさが平行に継続しているように見えるが、実は違う。演技から物語まで、リアルさが反転するのである。様式美は、フェイクというより、アンリアルだ。リアルの果てにアンリアルを「そうとは気付かせないように」設置した監督の手腕は恐ろしいほどである。再び、監督は、妄想と実体験、どちらを使って、この、男の友情と、人生の選択、そして運命論的な悲劇を描くセッティングを整えたのだろうか? もしそれが妄想なのだとしたら、G-RAPというエンターテインメントと、底辺の人々を描く劇映画というエンターテインメントの質差は、豊かすぎると言えるほど大きい。

(文=菊地成孔)

■公開情報
『ケンとカズ』
渋谷ユーロスペースほかにて公開中
監督・脚本・編集:小路紘史
出演:カトウシンスケ、毎熊克哉、飯島珠奈、藤原季節、髙野春樹、江原大介、杉山拓也
(c)「ケンとカズ」製作委員会
公式サイト:www.ken-kazu.com

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