宮台真司の『さざなみ』評:観客への最低足切り試験として機能する映画

宮台真司の『さざなみ』評

『さざなみ』の妻は神経質すぎるか

 巷には妻の過剰反応を訝る向きがあります。妻は、夫を攪乱する元恋人に攪乱されていますが、元恋人は既に不在です。不在に反応する能力が、チンパンジーと異なるヒト独特の性質なのは確かですが、とはいえ夫を攪乱する不在の恋人に妻が攪乱される姿は必然的ではないでしょう、と。

 愛するから嫉妬し、愛していない相手に嫉妬しない。ならば愛ゆえの嫉妬で愛を壊すのは理不尽です。自分を軽んじたという理由で相手が嫌いになることもありますか、それでも「相手が自分を重んじるべきだ」と思うのは、自分が相手を重んじるからこその<交換>バランスでしょう、と。

 ワークショップをファシリテートする宮台がいかにも言いそうです。スワッピングのように、夫に対する他者(元恋人)の欲望を、自らに再現して欲望する道もある、元恋人と夫の想像的関係への嫉妬を燃料にしてロマン主義的(=アバタもエクボ的)な愛を高める道もあるーー云々、と(笑)。

 こうした枠組で享受可能性を分析できる映画もあります。例えばミケランジェロ・アントニオーニ監督は、「2者関係が潜在的3者関係であること」をモチーフとする「気配の映画」を撮り続けて来ました。『情事』然り、『夜』然り、『欲望』然り。謂わば「何ものかに見られている映画」です。

 見る「何ものか」はヒトであるとは限りません。「不在の他者」だったり、「風にざわめく木々」だったり、「雲の流れが激しき荒天」だったり。潜在的3者関係を主題化した最初の作品なので、1960年のカンヌ映画祭でスキャンダルを巻き起こした『情事』を取り上げることにしましょう。

 夫婦同然の弛緩した一組のカップルがあります。男はサンドロ、女はアンナ、そして女の親友がクラウディア。3人は、他の旅行者を含めた一行でシチリア島周辺の島めぐりをしています。ところが荒天の中、アンナが失踪します。恋人サンドロと親友クラウディアがアンナを探します。

 絶えずアンナの気配を感じるがゆえの情欲で、2人は性関係に陥ります。やがて2人を含めた旅行者一行はアンナを忘却、アンナ探しがどうでもよくなっていきます。サンドロもクラウディアも、アンナの生死にかかわらずもう会うことはないだろうなどと思い始めるに到ります。

 ところがアンナの気配が薄れるにつれて2人の情欲が弛緩します。それゆえサンドロは、クラウディアと同宿する高級ホテルの無人の広間で第三の女グロリアと性交に及びますが、それをクラウディアに見咎められます。ホテルを飛び出すクラウディアに、サンドロが追いつきます。 打ちひしがれ涙を流すサンドロにクラウディアが手を差し伸べるーーこの「憫れみと赦しのラストシーン」は夙に有名です。巷ではこのラストが、「誰もが本当は弱いがゆえに不道徳な存在である他ないという事実を自覚した者たちによる、相互承認の身振り」として解釈されます。

 あろうことか、監督自身インタビューでそう述べています。そうであるなら、「罪なき者のみ石を投げよ」というヨハネ福音書第8章3節-11節の挿話に象徴される道徳(メタ道徳)がモチーフにならざるを得ません。しかし、この解釈は、道徳を否定する「気配の映画」を裏切ってしまうのです。

 メタ道徳は、誰もが「目で姦淫する」不道徳ぶりを逃れられないのにそれを忘れて道徳を持ち出す輩の似非道徳者ぶりを、非難するイエスの言説に見られます。自分も猥褻な妄想を抱くのに、救われたいので行動に移さず、律法を守る。そんな利己的律法遵守に道徳的意味はあり得ないと。

 かかるメタ道徳を主題化した作品は無数にありますが、アントニオーニ作品に限っては違います。実際『情事』に満ちた「気配」はそうした解釈を裏切ります。そうでなく『情事』のラストは、「誰もが2者関係を大なり小なり潜在的3者関係として生きている」という事実に関連します。

2者関係は潜在的3者関係としてある

 「全ての2者関係は潜在的3者関係としてある」という事実を最初に見通したのは戦間期に活動した社会学者G・H・ミードです。3者とは主我・客我・他我。他我は「そこにいる他者」であり、客我は「そこにいない他者(達)の反応の中に結ぶ像」であり、主我は「私としての私の反応」です。

 「私」が他我alter ego=「そこにいる他者」に向けて何か行動します。行動が何を意味するのかは、客我Me=「そこにいない他者(達)」の反応の中に結ぶ像として与えられます。その像を前提として、主我I=「私としての私」の反応と行動が後続します。段落冒頭の「私」は主我Iに相当しています。

 ミードに於いては「私」の行動の意味は、「私としての私」ではない「不在の他者の視座」から判定されます。「不在の他者の視座」=「そこにいない他者の反応」を取得する営みを彼は役割取得role takingと呼びます。役割取得の能力は生得ではなく、幼児期のゴッコ遊びを通して習得されます。

 幼児はママゴトで母親の視界を、泥棒ゴッコで警官の視界を、取得します。眼前に母親や警官がいなくても母親や警官に<なりすます>ようになります。やがてこうした個別役割の取得を超え、他者一般 generalized others の役割取得ーーヒトには一般に世界がこう見えるーーに到ります。

 かくて「私」の行動が他者一般の視座から見て何を意味するかを理解するようになることが、ミードによれば「大人になること」。彼の『精神・自我・社会』(1934年)に従えば、客我Meの概念は、大人に於いては、こうした他者一般の反応の取得によって与えられる像を意味すると言います。

 再確認すると、主我Iは「私としての私」の反応に、客我Meは「そこにいない他者」の反応に、他我alter egoは「そこにいる他者」の反応に関わります。ティーポットが三脚あって安定して立つように、人間関係は純然たる2者関係でなく、「潜在的他者」を想像した「3者関係」として成り立ちます。

 学説史の常識ですが、ミードの議論はフロイトの翻案です。だからフロイトの継承を自称するラカンの枠組にも近接します。実際、以上の議論は、<社会>を生きるのに必要な言語プログラムの書込みがどう為されるのかについてのモデルであり、ラカンの「父の名」のモデルと競合します。

 ちなみに、ミードの主我Iは、フロイト=ラカンが言うes (it) に相当します。これは、es regnet (it rains)即ち「雨がふる」というときの、非人称主語のes (it) に由来していて、「事象の連なりの起点」ないし「エネルギーの起点」を意味し、経験的主観像に当たる客我Me=自己(主体)ではありません。

 『情事』に戻れば、そのラストシーンは、「誰もが2者関係を、大なり小なり潜在的3者関係として生きている」という事実を、互いが共有することが、相互承認への道だろうとする予測を表明していると見るしかありません。ここで僕は20歳代半ばから十年余りの間の経験を思い出します。

 僕は22歳で失恋した埋め合せに「もっといい女」を求める営みにハマりました。1990年代前半にナンパ師を多数取材しましたが、よくある話。僕はどんな女とつきあっても「自分を振った女の気配」を感じました。そんな女で手を打っちゃうの? ーー脳裏にそんな囁きが聞こえました。

 でも失恋の記憶が薄れると、いい女探しはオートメーションに頽落。僕は感情が働かないナンパ・マシーンになります。そして十年の時を経て偶然ーーいや「その女」の計画だったかもしれないーー感情不全の苦境を克服するに到ります。それがなければこうした文章を書いていません。

 僕は「その女」に明白に調教され、「その女」に恋心を抱いたり欲情したりする第三者(たち)の視座と反応を自分の内で再現することで、「その女」への高いテンションを維持できる事実を知ります。こうして僕は、自分が複数の視座が錯綜する「場」の如きものへと展開していくのを感じました。

 今は次の段階に進化しましたが、そのためにも必要なステップでした。即ち、「全ての2者関係が潜在的3者関係としてある」との事実認識を共有することで、『情事』が描く寛容さに開かれ得ます。こうした解釈に立てば『さざなみ』の妻は経験値不足ゆえに狭量だという話になります。

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