2024年大河ドラマは紫式部が主役? 平安時代にあふれかえった「藤原」姓は、なぜ現代でも多いのか

世尊寺伊房 詞書 ほか『源氏物語絵巻』[1],和田正尚 模写,1911. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2590780

2024年は紫式部が主役?

 2022年のNHK大河ドラマ、「鎌倉殿の13人」は北条義時を演じた小栗旬の好演などが支持され、ある種のブームにもなった。大河に限らず、日本の歴史ものは、戦国時代であれば盛り上がるけど、幕末を描くと少し人気が落ち、その他の時代はさらに苦戦する、という構図が続いていた。そんな中、源平合戦、武家政権成立という難しいテーマをヒットに結びつけたのだから、歴史もの好きは関係者に素直に感謝するしかない。

 そして、2023年は松本潤が主演の「どうする家康」だ。また、戦国ものと感じる人もいるかもしれないが、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の絡む物語はそもそもおもしろい。子どもや若い世代にも早めに触れてほしいので、定期的にやるべき題材なのだろう。

 だけど、その次の2024年の大河は吉高由里子主演の「光る君へ」になるという。なんと、『源氏物語』の作者、紫式部が主人公なのだ。平安王朝が舞台で、雅やかな貴族ばかりが出てくる時代だ。

京都の宇治橋にある紫式部像 写真=photolibrary  https://www.photolibrary.jp

「攻めるなあ」

 正直、そう思う。でも、殺伐とした鎌倉幕府創設期でさえヒット作になった。人物像が固まっていないキャラクターばかりなので、それがおもしろさを生むかもしれない。

平安時代、あふれかえる藤原氏

 平安時代を扱うということは、舞台である都は藤原氏であふれかえっている状況だ。

 「あふれるって、大げさな」

 そう思う人もいるかもしれない。でも、実際に藤原氏はあふれたのだ。繁栄しすぎて、どんどん分家し人数が増えすぎた。最初は都で職(官職)にありつけばやっていけたのだけど、だんだんと職の方が足りなくなった。

 仕方ないから、本流や勢いのある家系から離れた人たちは、地方の職を得て、あっちこっちに移住していった。

 だから、伊勢に土着した人は伊勢の藤原で「伊藤さん」になった。加賀ならば「加藤さん」だ。日本で一番多いとされる名字である「佐藤さん」の場合は、左衛門尉という官職を得たからという説と、佐野に住み着いたか、佐渡守になったから、などの説がある。まあ、どちらにしても藤原氏にゆかりがある。

 このように名字に「藤」(特に後ろ側に)がつくと藤原氏に関係がある場合が多いので、日本は藤原氏であふれかえっている状況が、平安時代以降ずっと続いていることになる。

 日本史をつくってきたのは、源氏でも北条でも織田でも徳川でもなく、藤原なのかもしれない。

ご先祖は大化の改新で活躍した中臣鎌足

 この藤原氏、御先祖は大化の改新で活躍した中臣鎌足であることはよく知られている。中大兄皇子の股肱の臣として、当時権力中枢の座にあった蘇我氏を滅ぼし、日本の中央集権化を進めた人物。

 それまでの日本は先に豪族ありきの寄り合い所帯のような構造だったが、それでは中国王朝の唐、朝鮮半島の高句麗、新羅、百済が争う国際情勢に対処できない。当時の国際的スタンダードである王を中心にした集権国家にしようと改革をもくろんだのが、中大兄皇子と中臣鎌足のふたりだった。

 だが、志半ばにして、鎌足は死を迎える。嘆いた中大兄皇子が鎌足に与えたのが「藤原」という、特別な姓だった。

 しかし、この政権は長く続かない。中大兄皇子が天智天皇として即位するも、ほどなく病に倒れる。継承したのは子の大友皇子だったが、すぐに天智天皇の弟である大海人皇子が兵をあげる。壬申の乱が勃発したのだ。

 乱は大海人皇子側の勝利で終わり、天智天皇と中臣鎌足が形づくった政権はついえる。鎌足の中臣氏も衰退した。このままでは、「藤原」は鎌足一世一代の称号になっていたかもしれない。伊藤さんや佐藤さんの名字も変わっていただろう。

 でも、鎌足の子である藤原不比等(ふひと)は、まだ成人していなかったこともあってか生き残った。それだけではなく、天武天皇となった大海人皇子の政権下でメキメキと台頭してくる。

 こうして、藤原不比等は大宝律令の完成に中心的役割を果たし、『日本書紀』の編纂にも関与したとされる。中央集権国家建設にあたり、鎌足以上に活躍したのだ。そうそう、有名な興福寺を奈良に移したのも、この不比等だ。

 そして、不比等以降、藤原氏は強大化する。子の武智麻呂(南家)、房前(北家)、宇合(式家)、麻呂(京家)と分流し、それぞれに繁栄したのだ。

藤原北家の真ん中だけ

 この藤原氏の台頭には、不比等が蘇我氏から妻を得たことも関係があるようだ。蘇我氏は鎌足らによって本流が滅ぼされたとはいえ、代々、天皇家と婚姻関係を築き、貴種性の高い一族だった。これとつながることで、藤原氏も貴種性を獲得したことになる。

 ただ、藤原氏にも危機はあった。天然痘が流行し、武智麻呂ら4兄弟が相次いで亡くなったときは、橘諸兄、吉備真備ら藤原氏でない 官僚らが政権に中心に座った。

 平城上皇と嵯峨天皇が争ったときには、式家の藤原仲成、薬子らが敗れて死んだ。

 しかし、9世紀半ばには、天皇の外戚を続けた北家が大きく台頭する。もう、北家の真ん中にいないと都では出世が難しくなる。承平・天慶の乱で反乱した平将門を倒した藤原秀郷は北家の出とされ、将門と同時期に反乱した海賊王、藤原純友も実は北家の出身。どちらも、地方で官職を得て、そこに土着する流れの中にいた人物だ。

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