藤本タツキ『さよなら絵梨』がもたらす“良い混乱” モキュメンタリー漫画という革新性を考察

※本稿は『さよなら絵梨』のネタバレを含みます。

 2022年4月11日、コミックアプリ「少年ジャンプ+」にて、藤本タツキの『さよなら絵梨』が公開された(全200ページ一挙掲載)。本作はあの名作『ルックバック』の“次回作”でもあり、公開前から数多くの漫画ファンたちの注目を集めていたと思うが、いざ蓋を開けてみれば、前作に勝るとも劣らない大傑作。SNSを中心に、絶賛の声が飛び交っている。

 さて、本稿では、この漫画の「映画的手法」に焦点を当てて、話を進めたいと思う。

 すでに同作をお読みの方が多いと思うので、物語の内容紹介は基本的にはしないつもりだ。また、さまざまな解釈を生み出すメタ構造や、元ネタ探し(『ぼくのエリ 200歳の少女』他)などについても、すでに多くの論者が指摘しているため、私のほうから特に繰り返すこともあるまい(ただし、メタ構造については、最後のほうで少しだけ「映画」と絡めて触れることにする)。

手持ちカメラと固定カメラの使い分けの妙

 『さよなら絵梨』の基本的なレイアウト(コマ割り)は、(時おり大ゴマが意図的に挿入される他は)1ページ内に、横長のコマを4つ、縦に配置したものである。これは、同作の主人公・伊藤優太がスマホで撮影した映像――つまり、「スマホの画面の形」を漫画のコマに見立てたフレームだ。

 当然、単調なコマ割りが延々と続いていくことになるわけだが、そうした“縛り”の中であらためて問われるのは、作者の“編集”のセンスだろう。ちなみに、ここでいう編集とはいわゆる「モンタージュ」(※)のことであり、それこそまさに日本の漫画表現における「映画的手法」に他ならない。

※……視点の異なる複数の映像を繋ぎ合わせる映画の技法のこと。日本のストーリー漫画の多くも、この技法を取り入れている。

 なお、同作で、藤本タツキが描いた「映像」は大きく分けて2パターン。1つは、「手持ちカメラによる映像」(に見立てた絵)であり、もう1つは、「固定カメラによる映像」(に見立てた絵)である。

 まず、「手持ちカメラによる映像」だが、こちらがほぼ全編を通しての基本的なヴィジュアルということなる(ほとんどの場面が「スマホを手に持って撮っている」というのが前提なので、当然そういうことになるだろう)。とりわけ巧(うま)いと思うは、要所要所で――たとえば、優太が動揺した時や、(「移動」の表現を含めた)スピード感を出したい時などに「手ブレ」の映像をあえて挿入するという“演出”であり、この表現によって、画面には映っていない主人公の内面や行動を読者は“感じる”ことができる。

 また、もう1つの「固定カメラによる映像」だが、こちらは長ゼリフの場面などで比較的多く使われているように見える。あえて、セリフが延々と続く、ともすれば退屈になりがちな場面に、単調な長回しの映像(絵)を持ってくるあたりに、この作者の並外れたセンスと自信を感じないわけにはいかない……というのは、いささか褒めすぎか(それ以外では、「ヒロインの表情の変化」を印象的に見せたい場面などで、固定カメラの映像が使われている)。

虚構と現実が入り混じったモキュメンタリー

 そこで、藤本タツキはなぜ、今回、こうした、“映画的”どころか、“映画そのもの”といってもいいような手法を選んだのか、ということを考えてみたい。もちろん、それは作者にしかわからないことであり、テクスト論至上主義者にとっては「どうでもいいこと」なのかもしれないが、おそらく彼は、この『さよなら絵梨』で、「モキュメンタリー映画」を批評、解体、再生したかったのではないかと私は思う。モキュメンタリーとは、疑似ドキュメンタリー――すなわち、「ドキュメンタリー風に作られたフィクション」のことである。

 そういえば以前、拙著『漫画家、映画を語る。』の中で、諫山創(『進撃の巨人』)がモキュメンタリー映画について語ってくれているので、以下に引用したい。

 実は僕、モキュメンタリー映画が大好きなんですよ。当たり前の話かもしれませんけど、やはり「嘘の話」をリアルに見せるには、モキュメンタリーがもっとも適した手法なんじゃないでしょうか。これは映画にしかできない手法だと思います。漫画や小説でもやれなくはないけど、なかなかうまくいかないんじゃないでしょうか。
(島田一志・編『漫画家、映画を語る。』フィルムアート社より)

 と、このように諫山は謙遜して(?)、漫画でモキュメンタリーはなかなかうまくいかない、といっているわけだが、いやいやどうして、『進撃の巨人』全編に漂っている異様なまでの緊迫感は、彼が巧(たく)みにモキュメンタリー映画のカット割りや演出を取り入れているからだと私は秘かに睨んでいる。

 藤本タツキも同じだ。というよりも、諫山の作品よりもさらにわかりやすい形で、革新的な「モキュメンタリー漫画」(というジャンルが果たしてあるのかどうかは知らないが……)を生み出すことに成功しているといってよかろう。

 それでは、なぜモキュメンタリーなのか、という疑問を抱く向きもおられるかもしれない。それはたぶん、藤本タツキの漫画家としての“資質”に最も適しているのが、その(現実と虚構を超越した)ジャンルだからだとしかいいようがない。

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