人はなぜ「させていただく」に違和感をおぼえる? 言語学者が解き明かす“敬意のインフレーション”

人はなぜ「させていただく」を使いたくなる?

「させていただく」はほどよい距離感を演出できる

椎名:私の専門は「歴史語用論」というんですけども、たとえば、昔のイギリス人はどんな英語を話していたのかというのを、コーパス(言語学の研究で使うデータ集)で調べるんですね。今回も「させていただく」でコーパス調査をやってみました。「いただく」だけを見ても時代によって多くなったとか少なくなったがわからないので、「もらう」「いただく」「くれる」「くださる」の4つをセットにして見ていくんです。

 私が若いときは「くださる」が丁寧な言い方だったんですね。「させてくださる」の形でもよく使われました。だけど今は「させてくださる」が使われなくなって、「させていただく」が使われていることがわかりました。「くださる」は敬語形なんですが、主語があなただから言葉であなたに触れるので、使ってるうちに敬意がすり減ってしまうんですね。それで、「させていただく」へとシフトしてきたんだと思います。じゃあ「くれる系」全体が「もらう系」に取って代わられたのかというとそうでもなくて、普通形だと「させてくれる」は使用が増えていて、「させてもらう」は変化がない。だから、「させていただく」の使用増加は、敬語形だけの問題、つまり丁寧に言おうとしたときにだけ生じている現象だということになります。

使用が増加している「させてくれる」と「させていただく」というのは、主語が誰か、敬語形かどうかという点を考えると、距離感的には一番近い言葉と一番遠い言葉なんです。相手との関係が近いなと思ったら「させてくれる」と言うし、遠いなと思ったら「させていただく」って言う。実際は4択ではなく2択になってきたということがわかりました。

ーー近い人にはより近く、遠い人にはより遠い言葉を使うようになっていると。

椎名:そうです。真ん中がないというのは、ギアが、1かMAX(最大)か。そのあいだにある微妙な距離感の言葉は使わず、選択肢がふたつしかないという点では、コミュニケーションがわかりやすくなったとも、貧弱になったとも、どちらとも言えるのかもしれません。

 最近の学生さんはとても繊細なんですよ。「自分が人を傷つけてしまったと知って、傷ついた」というんです。「おいおい」って心配になります。傷つけたり傷ついたりしないように、「させていただく」を使って距離をとりたいんでしょうけど、傷つきながら逞しく大きくなっていってほしいというか、もうちょっと相手と積極的にからんでもいいのでは、と思いますね。

ーー人はなぜ「させていただく」を使ってしまうのでしょうか。

椎名:「させてくださる」と「させていただく」を比べると、「させてくださる」は主語があなたなので、言葉であなたに触れてしまうんですが、「させていただく」は自分が主語なので、あなたに触れずに丁寧になって距離感が出せるので、無難なんじゃないでしょうか。特に、「あなた認知」の動詞は、距離感のある「させていただく」と一緒に使うと、遠近両用っていうか、押しつけがましさが薄れて、ほどよい距離感が演出できるからだと思います。

 アーヴィング・ゴフマンというアメリカの社会学者がいるんですけども、丁寧さを示すには、相手に敬意を伝える「表敬」と、私は品性がある人間ですという「品行」を示す方法がある、といったことを言っています。「くださる」はあなたが主語なので表敬の敬語ですが、「いただく」は自分が主語なので自分の話として、「自分はちゃんとへりくだることのできる謙虚な人間ですよ」ということを示す「品行」の敬語です。もしかしたら、敬語は時代と共に「表敬」の敬語から「品行」の敬語へとシフトしていて、その現れとして「させていただく」が使われるようになったのかもしれません。

ーーー今後も使われ続けるのでしょうか。

椎名:調査では、「させていただく」の後ろがどう活用するかというのも見てみたんです。そうすると、「させていただきます」という言い切りの形が一番多いことがわかりました。でも、どこかつっけんどんな感じがしますよね。取り付く島もないというか、持ってくだけ持ってっちゃうぞという宣言みたいで。では、どうするかというと、共感の「ね」をつけることが多くなっているようです。「させていただきますね」と。「させていただいてもよろしいでしょうか」と、後ろに許可求めの疑問文をつける形も使われていますね。

 ある会議に出席したら、「させていただいてございます」と言っている方がいて。すぐにメモをとりましたね。「させていただいております」の「おる」が「ござる」に置き換わっているんです。「おる」は丁重語で「いる・ある」のへりくだりなのですが、「おります」では敬意が十分ではないと感じるんでしょうかね。だから「ございます」にしたという。敬意のてんこ盛りですよね。敬意のインフレーションです。「丁寧な方だなぁ」と思う反面、「仕事で事務的な話をしているのだから、そこまで丁寧に言わなくても」ってツッコミたくなりました(笑)。

 というわけで、「させてください」とか「お…する」とかで他者指向的な敬語で言ってたものが、自分がへりくだる丁重語的な「させていただく」に取って代わられることで、敬意が他者に向かなくなっているわけです。「表敬」の敬語から「品行」の敬語へのシフト、「敬語のナルシシズム」と言える現象かもしれません。

 しばらくはこうした状況が続くんじゃないでしょうか。あと10年ぐらい経つと、「させていただきます」では「敬意が足りない」となるんでしょうかね。そして「させていただいてもよろしいでしょうか」や「させていただいてございます」でも敬意不足ということになったら、きっと、違う表現が登場してきてると思うんです。楽しみにしていてください。

■書籍情報
『「させていただく」の語用論ー人はなぜ使いたくなるのかー』
著者:椎名美智
出版社:ひつじ書房
発売日:発売中
定価:3,600円+税
公式サイト

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