『チェンソーマン』はなにが衝撃的だったのか? ジャンプ大好き評論家3名が徹底考察

最終回直前『チェンソーマン』座談会

聖書の引用に意味はあるのか?

岡島:『チェンソーマン』で聖書の引用が出てきますが、日本人にとって聖書はどこまでメタファーとして意味があるのかという疑問があります。そういうのも面白いとは思うんですけどね。

倉本:マキマが精神崩壊したあとのデンジを連れて、廊下にずらっと居並ぶ悪魔や魔人を眺めながら「この者達は皆貴方の眷属です」」と言ったときに、「私と信仰の違いこそありましたが」みたいなことも言う。

成馬:パワーやセラフィムという名称は天使の階級ですよね。「天使の悪魔」も出てくるし。岡島さんの疑問は、設定上の辻褄合わせ以上の意味が聖書の引用にあるのか、ということですよね。日本人にとっての旧約聖書的な終末論が、90年代後半以降、具体的にはオウム神理教が起こした地下鉄サリン事件以降、大きく変わってしまったと思うんですよ。あの時期までは、ノストラダムスの大予言的なハルマゲドン思想にみんな説得力を感じていたので「世界の終わり」の予兆を描く際に、聖書の引用を多用していたわけですよね。もしかしたら、劇中の設定が架空の90年代なので、多少は意識しているのかもしれないですけど、深いこだわりはなさそうですよね。

岡島:藤本先生が引用している聖書は、いろいろな宗教を勉強して、聖書を選んだわけじゃなく、オタクカルチャーからだと思うんです。記号として宗教を取り入れてるだけで、より多くの日本人の心情に訴えかけようとしたら、仏教や儒教の方がより多くの日本人にとって馴染み深いはずなので。

成馬:『ファイアパンチ』のアグニはインド神話からですよね。でもインド神話にこだわりがあったかというと、正直わからないですね。

倉本:たぶん1つの固有の宗教にこだわりがあるのではなく、宗教というものの仕組みに興味があるんだろうなと思いました。『ファイパンチ』の作中で「アグニ教」が立ち上がるように、宗教ができあがっていく過程が興味の対象なんだろうなって。

岡島:とはいえ、どこまで本当に興味を持って引用しているのかが見えないですよね。物語を構築していくために「宗教」というモチーフは使い勝手がとても良いので。

倉本:2作連続で宗教が織り込まれてるということは一応興味の対象ではあるんだろうけど、私たちの思う興味と、藤本先生の興味は違うかもしれない。

成馬:そうですね。『ファイアパンチ』にしても「この作品は宗教がテーマだった」と言おうと思えば言えてしまうけれど、本当にそうなのか? という感じもありますし。

倉本:アメリカの大統領が、全国民の1年分の寿命と引き換えに「銃の悪魔」を呼び出して、マキマに対抗するくだりがありましたが、マキマがもし「支配の悪魔」であるなら、アメリカ的な自由と、アジア的、ユーラシア的な専制の対立とも捉えられますよね。ある意味では政治上のイデオロギーの戦い。

岡島:そういうのが好きな人もいると思うんですけど、個人的にはそこまでしなくても……という気持ちがあります。世界観設定のうまさやメタファーを織り込んだパズル的な面白さよりも、最終的には感情移入できるドライブ感や没入感が個人的には好きなので。週刊誌であるジャンプの連載作品には、やっぱりそういうものを求めてしまうんですよね。読んでる少年たちと作者が熱狂とともに混然一体になって、突き進んで行くようなトランス感。どこかで『幽☆遊☆白書』の頃の冨樫先生みたいに、表現欲が暴走して、プロの漫画家としての自分を壊したくなるような、そういう境地にまで達してくれないかな、と期待してしまいます。作者コメントやTwitterなどではあまり自我が出ないように過剰に制しているように見えるんですが、制しているということはその奥に制すべき自我や表現欲求があるんじゃないか、と思うので。『幽☆遊☆白書』や『エヴァンゲリオン』みたいに作者が暴走して行く没入感というかドライブ感を、漫画家として本当に力のある藤本先生に、さらに求めてしまう。『チェンソーマン』では難しくても、いつかそういう作品が読めたらと、個人的には思います。

成馬:冨樫義博も庵野秀明も引用の積み重ねで、作品を積み上げるのですが、コピーのコピーでしかないことに罪悪感を抱えていて、オリジナリティを求めることで作品としては壊れていくんですよね。逆に言うと壊れることでしかオリジナリティを獲得できないとも言える。庵野秀明が言うところの「オリジナルが存在するとすれば僕の人生しかない」ということですが、自分自身の葛藤を作品に込めてプライベートフィルムに変えてしまうため、最終的に作品も本人も壊れてしまう。

倉本:たぶん、その壊れ方は藤本先生はないんじゃないかなと個人的には思います。というのも『ファイアパンチ』も『チェンソーマン』も、存在への懐疑が描かれていますよね。『ファイアパンチ』は怪物みたいに扱われてたアグニが、いつの間にか神になって、神だけが一人歩きして、本人が現れても憎まれる、みたいな状態になっていく。自分とは何なのかということがどんどんわからなくなるんですよね。『チェンソーマン』でも、自分がやってたことは何だったのかということが何度も描かれる。そもそも自分って何なんだ、みたいなところが出発点だから、壊れようがないのでは。

成馬:「どうやって生きていくのか」という問題の方がテーマとして切実なんですよね。

倉本:やたら「生きて」という呪いをかけてくる登場人物が多いんですよ。それは同時代の人たちに共有されてるものなのかなってちょっと思いました。

成馬:『ファイアパンチ』からずっとそうですね。『呪術廻戦』でも、七海が死ぬ瞬間に「これを言ったら呪いになってしまう」って言ってから「あとは頼んだ」と言うシーンがあります。やはりこの二作は作者の年齢が近いこともあってか共有している部分が多いですよね。『チェンソーマン』の第1話で、デンジがポチタに「普通の普通の暮らしをして」「普通の死に方をしてほしい」と言うじゃないですか。その感覚は『呪術廻戦』の虎杖の感覚にも近いですよね。「普通に生きて普通に死にたい」みたいな願いが最初にあるというか。

倉本:「正しい死」と「正しくない死」の差異は何なのか、といった問い。

成馬:『鬼滅』もそうですよね。昔は「夢」の対比として、「日常」や「平凡な私」があったと思うんですよ。それが今は「普通の生活こそが夢」みたいな状態なっている。デンジにとっては「平凡な暮らし」こそが夢で、死を最初から意識せざるを得ないものとして描かれている。「夢」の対比として「死」を前面に打ち出してくる作品が、当たり前のように少年漫画として連載されてる状況は、すごいなぁと思います。

岡島:要は「貧困」ですよね。今は普通に暮らしていくのすら難しい時代だということなんでしょう。

倉本:やはりこの国は貧しくなってしまったんだなぁと実感します。

成馬:藤本先生が漫画の読み切りを書くことで家賃や大学の奨学金を返済したという話を読んだときに、第1話の臓器を売る話は、そういう体験がベースにあるのかなと思いました。奨学金で大学を卒業した若い子は、社会に出た瞬間から負債を背負わされている状態で、それをどう返済して日常をやり過ごしていくかの方が、本人の中で切迫した問題となっている。それを考えると「自意識の問題」とか、もはやどうでもいいのかなかと思いました。

『タイムパラドクスゴーストライター』

倉本:そうかも。少年漫画で、貧困が主人公の生命線を脅かすみたいな話は普通に出てきますよね。『タイムパラドクスゴーストライター』というジャンプ作品でも、他人のネタを意図せず借用して人気漫画作家になった主人公が、元ネタを描いた子にあとで全部返すために、稼いだお金に一切手をつけずに頑張っている。それで死にそうになるというエピソードがあるんだけど、生活の困窮がごく普通にストーリーに織り込まれているところが切実だなと思ったんですよね。

成馬:コベニちゃんも超貧困ですよね。

倉本:兄を大学に行かすために自分はむりくりデビルハンターをやらされているっていう。しかもデビルハンターを辞めたあとは、普通にファーストフード店で働くんだけど、そこの店長から笑顔でむちゃくちゃなパワハラとモラハラを受けている。あの場面、すごい現代的だなと思いました。

成馬:コベニちゃんの話って、どういうノリで描いてたんですかね。急にギャグパートになるわけじゃないですか。思い付きで描いているように見えるのが凄く不思議で…。

岡島:シリアスな話が続けば、まったりとした話を間に入れる。緩急を付けてそれぞれの話をより際立たせようとしてるんだと思います。ただそのいろんなテイストの回が、それぞれめちゃめちゃ上手い。いろいろなノリの漫画が極めて高いレベルで描ける実力があるということだと思います。

倉本:『ファイアパンチ』のインタビューで藤本先生自身がストレートに描き続けると偏るからという趣旨のことを言っていたので、意識的なんだろうなとは思います。

成馬:引き出しが多いってことですかね。

倉本:引き出しが多いし、同じノリで収束されるのが全体主義的で気持ち悪いって思うタイプなんじゃないかな。砂川文次さんという、90年生まれの作家が最近書いた「小隊」という中篇小説では、ロシア軍と日本の自衛隊が北方領土で鉢合わせしてしまったのに、命令が下りてくるのに時間がかかってしまい、その命令が現場に下りてくる頃には、もうにっちもさっちもいかない状況になってしまって、衝突せざるを得なくなってしまうんですね。そうやってなし崩し的に戦争が始まっていくんですけど、登場人物たちは日常的に夥しい情報に囲まれているから、情報を取捨選択するような状況に疲弊していて押し流されるように戦争の起点に立ってしまうんです。それを読んだ時、みんな疲れてるんだな、と。

成馬:デンジ君も考えることが嫌になって、顔が疲れていきますよね。生きるために、考えざるを得なくなってバカのままではいられなくなるんだけど、これ以上、難しいことは考えたくないと悩んでいる。

倉本:考えることを放棄して「マキマさんの犬になりたい」とかいうじゃないですか。だから昔の少年漫画みたいに、夢、希望、みたいなものじゃなくて、日常の些末な出来事や日々の生活の糧を得ることに、とにかく疲れて消耗しているという状態から始まるところが、すごい「今」なんだって思いました。

※『チェンソーマン』最終回については近日、再び三人が鼎談する予定。乞うご期待!

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