精神科医・斎藤環が語る、コロナ禍が明らかにする哲学的な事実 「人間が生きていく上で、不要不急のことは必要」

斎藤環が語る、コロナ禍と哲学的な事実

コロナが明らかにする哲学的な事実

ーー先日、斎藤先生がnoteに著された論考はどれも興味深く、コロナ以降の社会を考えるうえで様々な示唆に富んでいると感じました。「コロナ・ピューリタニズムの懸念」では、梅毒の蔓延がピューリタニズムをもたらしたという説を引きながら、コロナ禍が今後の倫理に影響を与える可能性について論じています。

斎藤:3密を避けるとか、ソーシャルディスタンスといった新しい振る舞いは、医学的な見地からの要請ですが、いつの間にか道徳律のような働きを持ち始めていると感じています。それが暴走したのが自粛警察だと考えると、危険な兆候ではないでしょうか。特に危険だと思うのは、コロナウイルスによってエアロゾル感染が起こることが疫学的な見地から露わになったことで、「親密な関係は不潔なものである」といった誤った価値観が、コロナ禍が収束した後も残ってしまう可能性です。noteの「失われた『環状島』」にも書きましたが、コロナのようなパンデミックは100年前のスペイン風邪のように、体験としては忘れられやすい可能性があり、そうなると新しい価値観だけが無意識レベルで強固に残ってしまうのではないかと。日本は特に、他人が箸を付けたものを食べないとか、他者を忌避する傾向がもともと強いため、新しい価値観が浸透しやすい面もあると思います。先ほどテレワークの話で指摘したように、対人距離をおくことで楽になった人々も少なからずいると思うので、そうした人々への配慮は残しつつも、親密な関係を取り戻してほしいです。

ーー親密な関係を取り戻すためには何が必要でしょうか。

斎藤:誤った価値観が無意識レベルで残ってしまうところに懸念があるので、「コロナが収束したら、親密な関係を取り戻して良いんだ」と啓蒙し、意識化することが大切です。そのためには、必要な変化を受け入れ、なおかつ記憶にとどめておかなくてはいけません。私が今回、自分の考えをnoteを著したのも、言語化の必要性を感じたからです。

 たとえば、東日本大震災の時は震災をテーマとしたアートや音楽、映画、小説などがたくさん作られました。東日本大震災は大きな傷を伴う災害で、傷跡がはっきりとしていたからこそ、その周辺に表現を積み上げて記憶に残していくことができました。つまり、noteで書いた「環状島」が作りやすかった。しかし、コロナ禍に関しては、明確にいつから始まったものなのかがわからないし、武漢から発生したとは言われているものの、その根源は今も不明で中心地がはっきりとしない。また、誰もが当事者であり、同時に誰も当事者ではないという矛盾した状況があって、記憶に残るトラウマや、あるいは社会的外傷を残す体験が乏しく、濃淡のある言説が生まれにくい。だからこそ、自分から書こうと思いました。

ーーコロナ禍を記憶に残す上で、ほかに有効だと考える手段はありますか。

斎藤:私が提言したいのは、今回のコロナ禍を祭祀化するということです。祭祀というと不謹慎に思えるかもしれませんが、WHOがパンデミック終息を宣言したときに、その日を新型コロナ終息記念日として定めて、定期的に犠牲者の追悼式典のようなものを行うのは、この記憶を後世に残すために必要だと思います。我々人類がこの先もウイルスと共存し続けなければいけないのは確かなので、次のパンデミックがきた時に各国がより良い選択をするためにも、世界共通の記念日を定めるのは悪くないことだと思います。

ーー今回のコロナ禍において、今こそ国際的な連帯が必要だと訴える声は少なくなかったと思いますが、実際のところはどういう風に見ていますか。

斎藤:各国政府間の政策においても、疫学的な面においても、連帯はあまりできていないとは思います。むしろ、ワクチンを独占しようとしたり、マスクを横取りしようとする動きの方が目立ったくらいで、EU加盟国も自国主義に戻ってしまった印象があります。パンデミックはむしろ、連帯を難しくする面があるのだと、改めて思いました。実際、集団免疫理論に舵をきったスウェーデンのような国もあれば、ロックダウンで大きな打撃を受けた国もあり、各国ごとに政策はバラバラで、しかもどの国の判断が長期的に見て本当に正しかったのかは、未だにわからない状況です。

 しかし、noteの「“感染”した時間」にも書いたように、感染者数や死者数の推移に一喜一憂しながら動向を見守るという点では、世界中どこの国でもシンクロしていて、コロナ同期ともいえるような未曾有の状況が起こっているとも感じます。それによって、時間の感覚もおかしくなっていると思います。

ーー「“感染”した時間」では、今まで行っていたイベントがなくなったことで、人々の時間意識が変わってしまったと指摘していました。

斎藤:時間意識の変化に関しては、私は当初、自分だけの感覚なのかと思い、備忘録として書いてみたのですが、驚くほど反響があり、多くの人が感じていることなのだと実感しました。実はこのような現象は、精神医学の教科書に書いていませんし、哲学書でも読んだことがない。閉鎖空間で過ごすと体内時計が狂うという実験はありますが、それとも違い、今が何時だとか、今日が何曜日かというのはわかるけれど、過去の記憶が曖昧になるというか、3月から5月にかけての記憶の前後関係がどうもあやふやなんです。ダイヤモンドプリンセス号のこととか、アベノマスクのこととか、いろいろなことがありましたが、その遠近感が掴めない。おそらくこの感覚は、連続性の欠如ーー同じような日々が続く中で、一昨日はこれをして、昨日はこれをした、という感覚が曖昧になったことでもたらされた症状ではないかと。そして、この感覚は心理学でいうところの離人感にも似たものではないかと考えています。かつて、精神科医の木村敏さんは離人症になると時間の感覚が狂うと仰っていましたが、私は逆に、時間の感覚が乱されると離人感が起こるという回路もあるのだと気づきました。

 先ほどのパンデミックが記憶されにくいという話は、トラウマのメカニズムをもう少し詳しく知るきっかけになるかもしれないし、ピューリタリズムの話は人間の倫理観の起源に触れるものかもしれない。時間感覚の変容の話は、人間の時間感覚の連続性がどのように構成されているのかを明らかにするかもしれない。今回のコロナという特異な状況は、何よりも人間に関する様々な哲学的な事実がわかってくるのではないかと考えています。

 緊急事態宣言の渦中では、不要不急で欠かせない仕事だけは続けましょうという価値観がありましたが、人間の時間の感覚はたくさんの時間の線をより合わせたものであって、不要不急のことだけをしていると時間の線がどんどん痩せ細り、不連続な“今”だけになってしまう。だからこそ、人間が生きていく上で、実は不要不急のことをするのが必要なんだと思います。

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