村上春樹の小説は『ねじまき鳥クロニクル』以降に様相を変えたーーキャリア最重要作を再読する

村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』再考

 『ねじまき鳥クロニクル』のもう一つの特徴は、歴史、特に戦争についての記述だ。間宮中尉の独白として語られる“ノモンハン事件”(1939年、満州国とモンゴル人民共和国の間で起きた紛争。実質的には満州国を支配していた日本、モンゴルを傘下に収めていたソビエト連邦との軍事衝突)の描写は驚くほどに暴力的であり、その悲惨さは旧日本軍の無為無策、プリンシプルの欠如に起因していると言っていい。

 第二次世界大戦中の陰惨な戦闘を生々しく描いたことは、村上春樹の小説の評価(と印象)を変貌させた。実際、彼の作品は、『ねじまき鳥クロニクル』以前/以後として大きく様相が違う。その背景にあるのは、1995年当時の日本の社会情勢。1月に阪神淡路大震災、3月にオウム真理教による地下鉄サリン事件が起き、バブル崩壊後の社会は大きな闇に包まれた(個人的には、それが現在までつながっていると思っている)。この時期、村上は“デタッチメントからコミットメント”つまり、能動的に社会と関わるようになった。『ねじまき鳥クロニクル』が書かれたのはその数年前だが、この作品と当時と社会が強くリンクしていたのは間違いない。

 さらに記しておきたいのは、『ねじまき鳥クロニクル』の戦争の描写に、村上の父親の影が色濃く投影されていることだ。昨年5月に発売された『文藝春秋』6月号に村上は、「猫を棄(す)てる 父親について語るときに僕の語ること」と題したエッセイを寄稿。小学生の頃、村上と父親が猫を捨てにいった思い出(!)からはじまるこの文章には、村上の父の戦争体験が克明に記されているのだ。特に所属した部隊が中国で捕虜を処刑したと父から打ち明けられたエピソードは、『ねじまき鳥クロニクル』と強く結びついている。

 “大切な存在を突然失う”“異世界との交信”“人間に根源的な暴力”“自身の内面を掘り下げ、出口を探す”という村上春樹の小説の“定型”は、『1Q84』『騎士団長殺し』などにも共通している。その起点にあるのが『ねじまき鳥クロニクル』であり、村上のキャリアのなかでもっとも重要な作品だと言っても過言ではない。筆者もこの原稿を書くために久々に読み返したが、重層的な物語は驚くような発見に溢れていて、きわめて刺激的だった。舞台化をきっかけにして、原作にも再び注目が集まることを願ってやまない。

■森朋之
音楽ライター。J-POPを中心に幅広いジャンルでインタビュー、執筆を行っている。主な寄稿先に『Real Sound』『音楽ナタリー』『オリコン』『Mikiki』など。

 

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