直木賞『熱源』に学ぶ、“多文化共生”の難しさ 1月期月間ベストセラー時評

2020年1月期月間ベストセラー時評『熱源』

生まれ育つなかで獲得した視点から逃れがることは難しい

 ロシア人が、ギリヤーク(狩猟民)が住む森を燃やし、漁場を奪って経済基盤を破壊したことを、民族学が「ヨーロッパの白人が各地の先住民を支配する際のロジック」として利用されていることを知りながら、その研究対象とするリトアニア生まれのポーランド人。

 アイヌ女性の刺青の風習を「痛いからやりたくない」と正直思いながらも和人に「野蛮だからやめろ」と言われると怒りを覚えるアイヌの少女。「アイヌの叙事詩はすばらしい、偉大な民族だ」と褒め称えながらもその文化が失われ、滅びるという前提でアイヌに向かって話しかける東京帝大の学生・金田一京助。「ロシアが日本と戦争を始める余裕を持たせないようにロシアの革命家を支援している」とリトアニア生まれのポーランド人に新橋で語る二葉亭四迷。「この島で日本の戸籍を持つのは和人のほかはアイヌだけ。自分もいつかは戸籍がもらえる立派な日本人になりたい」とアイヌに向かって語る、樺太東岸に住むツングース系先住民族オロッコ(ウイルタ)の皇国青年。

 日ソ不可侵条約を破って樺太に上陸するも日本軍に捉えられたロシア人捕虜は「日本に占領された土地を奪い返す」と言い、アイヌ人の女性はそれを聞いて「もともとこの島は誰のものだったのだろう」と思う。今の時代の価値観から見て、相対的に誰の理屈が正しく、どこが間違っているのか、誰の視野が広く、誰の視野が狭窄かを第三者視点で検討するのはそれほど難しくないかもしれない。

 しかしもし自分がこの時代に生きた当事者のうち誰かであったなら、おそらくはここに描かれている人と同じような考えをしても何もおかしくないと私は思う。生まれ育った環境から得た視点から離れることの難しさと、まったく異なる環境で生まれ育った他者の視点になりきって考えることの難しさを感じる。

東京オリンピック開催の年の直木賞受賞作である意義

 「多文化共生」などと口で言うのはたやすい。しかし、樺太のように多様なバックグラウンドを持った人たちの交流と衝突が起こり、混淆する現場では、複雑な想いと思惑が交錯してきたのだろうことが本作を通じて体感できる。

 東京オリンピックを前に政治家もテレビも「がんばろう日本」「日本人が一丸となって」的なフレーズをすでに多用するようになっている。けれども人々のもつバックグラウンドは多様であること、それぞれのエスニシティやナショナルアイデンディティを形成してきた歴史は簡単ではないことに目を向けたいし、日本代表と戦う相手国の選手の背景にも関心と敬意を持って臨みたい。そんな気持ちにさせる、タイトルどおりの熱に満ちた作品だ。

■飯田一史
取材・調査・執筆業。出版社にてカルチャー誌、小説の編集者を経て独立。コンテンツビジネスや出版産業、ネット文化、最近は児童書市場や読書推進施策に関心がある。著作に『マンガ雑誌は死んだ。で、どうなるの? マンガアプリ以降のマンガビジネス大転換時代』『ウェブ小説の衝撃』など。出版業界紙「新文化」にて「子どもの本が売れる理由 知られざるFACT」(https://www.shinbunka.co.jp/rensai/kodomonohonlog.htm)、小説誌「小説すばる」にウェブ小説時評「書を捨てよ、ウェブへ出よう」連載中。グロービスMBA。

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