喜納昌吉&チャンプルーズの記事・ニュース・画像一覧

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今もなお精力的に活動し続けるオキナワン・ポップの第一人者。
48年、米軍占領下のコザ(現・沖縄市)に生まれる。父は沖縄民謡の大家、喜納昌永であるが、少年時代の昌吉はむしろギターに夢中だった。70年代、彼が17歳の時に作った曲「ハイサイおじさん」が沖縄、そして日本本土でも大ヒット。この頃、「紫」「コンディション・グリーン」「メデューサ」など、沖縄のロック・バンドが人気を博していたが、昌吉のバンド「チャンプルーズ」は民謡クラブでのライヴから火がついた。米国的ないわゆる<ロック>とは一線を画す音楽としてヒットし、以後、沖縄のポピュラー・ミュージックの代表曲として歌い継がれている。
「ハイサイおじさん」のモデルはもともと校長先生にまでなった優秀な人だったのだが、沖縄の戦乱の中でアル中になり狂ってしまった実在の人物である。そんな彼を、少年時代の昌吉は沖縄の伝統的共同体のやさしい眼差しで歌っている。(志村けんが替え歌的に「ヘンなおじさん」というギャグにしたが、後に昌吉は「あれでおじさんの魂を広げてくれた」と評している。)
昌吉のもうひとつの代表曲が「花(すべての人の心に花を)」。日本のみならず台湾/タイ/ベトナム/アルゼンチンなど、世界各国のアーティストがカヴァーしヒットしている。
その独特の言動からなにかと誤解されがちだが、彼の音楽への姿勢は驚くほど純粋。その証拠に、ヤマト(内地)の多くのロック・ミュージシャンから慕われ、沖縄民謡とロックの間に壁がないことを実証している。 どんとやソウル・フラワー・ユニオンらとで「ソーラン節」をカヴァーした「騒乱節」はまぎれもない<ロック>である。

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