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ピティ・パブロは群雄割拠の南部シーンにおいても一際輝かしい個性を持っている。が、日本での人気と知名度はあまり高くないとうな印象だ。そのことを某氏は、確か「ピティ・パブロは北尾のようだ」と例えていたと思う。言い得て妙。サスガ。
小さい頃からラップ・スターを夢見ていたパブロは、このゲームでのし上がるためにN.Y.へと向けて旅立つことを決意する。サイフのなかには行きのバス代だけ。そのかわりカバンには目一杯の夢が詰め込んである(想像)。
N.Y.でバスタ・ライムズ、ブラック・ロブ、ミスティカル、ミッシー・エリオットらと知り合いになったパブロは、ブラック・ロブとともにステージに立っている時にレーベル契約を持ちかけられる。そしてドロップされたのが、デビュー・シングル「レイズ・アップ」(01年)だ。
この「レイズ・アップ」が持つエナジーと中毒性が、ジワジワと疫病のように音楽シーンに蔓延した後、デビュー・アルバム『ダイアリー・オブ・ザ・シナー:1stエントリー』(01年)を発表したパブロは、ティンバランドのプロダクション効果もあり一躍スターに転貌する。ちなみに、この『ダイアリー〜』は大ヒット記録しただけではなく、ダーティ・サウス・ブームを焚きつけたのである。
とはいえ、それから05年現在まで、パブロは長い間これといった動きを見せず、彼の記憶は多くの人の頭のなかでクモの巣を張った状態であった(たぶん)。だが、04年にシングル「フリーク・ア・リーク」をドロップすると、(ほとんど力技で)リスナーの頭のなかで眠っていた記憶のフタをこじ開けた。「フリーク・ア・リーク」がスマッシュ・ヒットを達成したのである。それもこの曲を作ったリル・ジョンの手腕に頼るところが大きかっただろう。いくらパブロのラップぢからが相当のものとはいえ。つまり、ティンバランドという当時もっとも旬のプロデューサーと、リル・ジョンという04年当時もっともホットなプロデューサーの援護を巧みに受けて、パブロはこのゲームをサヴァイヴしているのである。

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