野宮真貴×高浪慶太郎が振り返る、1990年代のピチカート・ファイヴ 時代を創る音楽が生まれるまでのバックストーリー

野宮真貴×高浪慶太郎が語るピチカート

野宮真貴加入後に起きたサウンドの変化

ーー『レディメイドのピチカート・ファイヴ』の「空飛ぶ理科教室」では、高浪さんのボーカルが味わえます。

高浪:「空飛ぶ理科教室」は、あがた森魚さんのアルバム『バンドネオンの豹と青猫』(1987年)で僕が書かせてもらった曲なんですが、インクスティック鈴江のライブのとき、小西さんが、「あの曲をやりなよ」って言ってくれたのがきっかけでした。当時はまだ30歳くらいでしたから、歌も初々しい。

ーーピチカートにおける野宮さんのキャラクターも、最初の連続リリースでかなり固まった感があったのでは? 時には高飛車に見えるクールビューティというイメージもありましたが。

野宮:私はどんな歌詞がきても、そんなに悩まずに歌いました。というのも、小西さんから「歌詞のことは質問しないでね」と言われていたから、質問したこともないし(笑)。それでも聴いている人には、歌詞の中の女性像と私が重なるから、インタビューなんかで、「もっと怖いヒトだと思っていました」と言われることもありましたね。

高浪:真貴ちゃんは、どんな歌詞がきても飄々とクールに演じてくれたよね。

野宮:そうね。小西さんは仕事が終わったらすぐに帰っちゃうタイプだったけど、慶太郎くんとは飲みに行ったりする間柄だったから、慶太郎くんの曲に私が歌詞を書いたり、共作することも自然な流れだったと思います。

ーー1992年のアルバム『スウィート・ピチカート・ファイヴ』からは3曲が配信されます。この時期からファンキーでダンサブルなピチカートが炸裂していきます。

高浪:音楽的にはそうですね。真貴ちゃんが入って、華のあるライブができるようになったので、ライブで踊れるようなサウンドを意識するようになってきたんです。それに、クラブミュージックに勢いがある頃でしたから、それに歩調をあわせたところもありましたね。

ーーピチカート・ファイヴは、『Bellissima!』(1988年)でソウルミュージックへの接近を試みていましたが、野宮さんの時代になるとそれがポップでキャッチーに更新されたのでは?

高浪:やっぱり、真貴ちゃんの歌によるところが大きかったと思いますね。

野宮:私はいわゆる歌の上手い人じゃないんですけど、ピチカート・ファイヴでかなり鍛えられた気がします。

高浪:でも、真貴ちゃんは耳と勘が良いので、僕や小西さんがどんな曲をつくっても彼女のスタイルで歌えるんですよ。多少は「もっとパンチを」とか要求したかもしれないけど、最終的には見事に彼女のスタイルになるんです。

野宮:あと、この頃から打ち込みの曲が増えてきて、コンサートでイントロが長い曲なんかはどこから歌に入ったらいいのかすごく難しかった。

高浪:踊るための音楽だから、どうしてもイントロや尺が長くなるんですよね。小西さんはDJをしたりしていたけど、僕はクラブミュージックにはそれほど夢中になったわけではなかったので、ちょっと無理していたところもあったかもしれない。

ーーとはいえ、「ファンキー・ラヴチャイルド」のピチカート流ポップソウルは、今聴いても新鮮です。

高浪:この曲は小西さんとの共作なんですが、ベースが岡沢章さん、サックスが亡くなられたジェイク(・H・コンセプション)さんで、ジェイクさんにはピチカートではすごくお世話になりました。

ーーピチカートのアルバムには当時の腕利きのミュージシャンが多数参加していますね。

高浪:細野晴臣さんのレーベル、<テイチク/ノン・スタンダード>でデビューした頃はほとんど打ち込みだったんですが、CBS・ソニー時代にディレクターの河合マイケルさんが「生でやればいいじゃない」と言ってくれたおかけで、ジェイクさんやトランペットの数原晋さんなど一流のスタジオミュージシャンに参加してもらうようになったのは大きかったかな。

ーー曲の普遍性もさることながら、そういう要素も30年の時を超えて今なお響く楽曲の強度になっているのでは?

高浪:ホントにそうですね。ミュージシャンのおかげでもあるし、音楽業界に潤沢な予算があった時代の恩恵は僕らも受けたと思います。

“渋谷系”と呼ばれていたことについて

ーー当時の高浪さんと小西さんの曲作りの役割や分担はどのようになっていたんですか?

高浪:田島くんがいた頃も割とそうだったと思うけど、だんだんお互いの曲のレコーディングに顔を出さなくなって分業制になっていった気がしますね。小西さんはスタジオで曲をつくったりしていましたから、たぶん、スタジオ代やエンジニア代はスゴいことになったんじゃないですかね(笑)。曲作りに関しては、たいてい小西さんがアルバムのタイトルとかテーマを持って来て、それに合わせて曲を書いていたと思います。

ーー「コズミック・ブルース」のように作詞は小西さん、作曲は高浪さんという曲もありますね。

高浪:「コズミック・ブルース」というタイトルこそ、ジャニス・ジョプリンですが、たしかこの曲のレコーディングをしていた頃、漫画家の長谷川町子さんが亡くなったんです。それで小西さんの歌詞に「大好きな漫画」が出て来るんですよ。曲はエルビス・コステロの「Everyday I Write The Book」に影響を受けていますね。

ーーこの時期の野宮さんのモータウンのThe Supremesのようなファンキーなルックスも眼を惹きましたね。

野宮:ビジュアルのコンセプトはまさにThe Supremesとか黒人女性コーラスグループでした。ニューヨークで開催された音楽イベント『ニュー・ミュージック・セミナー』に参加したときに撮影もしたんです。

高浪:当時の事務所がそのイベントに関わっていて、日本からは僕らと少年ナイフや近田春夫さんのビブラストーンも参加したんだよね。そのとき、飛行機の中で、なぜか隣になったブラボー小松くんと電気グルーヴのピエール瀧くんと3人でゲームボーイで麻雀やったのを覚えている(笑)。

野宮:あの時がピチカートの初めての海外でのライブだったんだけど、まだ海外進出も考えていなかったから、私はニューヨークに遊びに行く気分でしたね。その後、アメリカでデビューすることになった時には、慶太郎くんはもういなくて、CBGBのライブでテイ・トウワくんがDJを務めてくれたこともあったんです。

ーー1992年から1993年は、“渋谷系”ブームが興り、ピチカートはそれを牽引する存在でもありましたが、当事者としてはどう感じていましたか?

野宮:私が覚えているのは、「最近、私たち、“渋谷系”と呼ばれているみたい」という話を慶太郎くんとしたこと。1992年には中野サンプラザでコンサートもしているし、HMVのようなお店でもディスプレーに力を入れてくれたんですよね。

高浪:僕、サンプラのときもアキレス腱を切っちゃって、松葉杖だったんです。“渋谷系”のブームは、やっぱりHMV渋谷の太田(浩)さんがつくったんじゃないかな。リリースのときに店頭で展開してくれたりして、注目されているのかなという風には感じていましたけど。

ーー80年代はマニアックな存在だったピチカート・ファイヴが、90年代に入ると支持層を拡大していったのは痛快でした。

野宮:私はソロデビューしてからずっと売れなかったから、ピチカートに入って、CDショップに自分のポスターが貼ってあったりすると、不思議な感じがして。それまでの活動がとにかく地道でしたから。

ーー野宮さんは、ピチカートのブレイクポイントで、すでに10年選手だったわけですね。

野宮:そうなんです。下積み時代が長い(笑)。なので、80年代はCMソングの歌唱や、他のアーティストのバッキングボーカルの仕事もしていて、ピチカートも、自分の中ではその仕事の一部という感じで始まったんですよね。それが『スウィート・ピチカート・ファイヴ』の頃からかな? 多少は名前も知られるようになり、世界が拡がっていったのは。

ーー1993年のシングル「スウィート・ソウル・レヴュー」のヒットはその決定打でした。

高浪:カネボウ化粧品のCMのタイアップが付きましたからね。

野宮;歌詞の中に“レヴュー”と“頬ずり”という言葉を入れてほしいという要望がクライアントからあったと小西さんは言っていましたね。私、ソロデビューの「女ともだち」もCMソングだったし、ポータブル・ロックも化粧品のCMに使われたんですけど、「スウィート・ソウル・レヴュー」でようやくヒットして(笑)。

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