the band apart 木暮栄一「HIPHOP Memories to Go」第6回 ヒップホップの過渡期に確立された“オリジナルなバンドサウンド”

バンアパ木暮「HIPHOP Memories to Go」第6回

 the band apartのドラマー・木暮栄一が、20年以上にわたるバンドの歴史を振り返りながら、その時々で愛聴していたり、音楽性に影響を与えたヒップホップ作品について紹介していく本連載「HIPHOP Memories to Go」。前回は、木暮にとっての生涯のアンセム・RHYMESTER「B-BOYイズム」がなぜ衝撃だったのか、楽曲との出会いから、音楽シーンにもたらされた影響までを語った。第6回では、ライブやバイトに明け暮れた2000年代初頭、まるで“注文の多い多国籍料理店のようだった”という、バンド初期のオリジナル曲制作について振り返っていく。(編集部)

「the band apart」誕生&無邪気な4人による初のオリジナル曲制作

木暮栄一

 Pro ToolsやLogicのようなDAW(デジタル・オーディオ・ワークステーション)の普及と共に、音楽制作の形は大きく変わった。今では一台のPCの中に数百種類の機材が搭載されているようなものだから、全ての作業を自宅のベッドルームで完結させることだってできる。

 元々そんな制作形態と相性が良かったダンスミュージック、あるいはその方法論を踏襲したスタイルの音楽が欧米のポップミュージックの主流になっているのも、現代の音楽の聴かれ方/消費のされ方と、作り手に求められるスピード感を考えてみれば当然の話なのかもしれない。

 その点バンドの場合は、様々な要素をメンバーと共有するというプロセスが不可欠なので、気軽さや作業効率という意味では時代に則していないと言うこともできるが、「複数人で何かをする/作る」という行為自体、あるいはそこから生まれるものにはやはり独特の魅力があると思う。

 僕たちが音楽を始めたのは、そんな「バンド」が時代の主流だった頃の話。 

 RHYMESTER「B-BOYイズム」にブッ飛ばされたり、クラブでセクシーなお姉さんをチラ見したりしていたのと同時並行で、僕は時々バンドでドラムを叩いていた。メンバーは今と同じである。

 板橋区の区民センターの音楽室を借りてGreen DayやMetallica、Hi-STANDARDのコピーをして遊んでいた僕たち4人は、原昌和(Ba)の通っていた定時制高校の文化祭で勝手に演奏したりしていたが、そのうち荒井岳史(Vo/Gt)のツテで北区十条のライブハウスに出ることになった(はっきりとした経緯は覚えていない)。

 ライブをするなら名前が必要、ということで「スカビンジャ・ダイブ(NOFX「 Scavenger Type」をギターの川崎亘一が間違えて覚えていたもの)」「酢もずくモロヘイヤ」などが候補に挙がったが、結局4人が共通して好きだったクエンティン・タランティーノのプロダクション名の冠詞を変更した「the band apart」に落ち着いた。

 それに伴い最初に作ったオリジナル曲は「Bee」というタイトルで、ほぼ全パートの作曲を原が手掛けた。変拍子のイントロから2ビートへ展開していく曲の構造には、衝動的なメロディックパンクのキャッチーさに惹かれつつも、根本的な音楽的背景にフュージョンやメタルなどの構築美があるという、今に通じる原の嗜好が、未熟ながらすでにはっきりと滲んでいたと思う。

 その辺りからオリジナル楽曲の制作に励んでいくことになるのだが、最初期のthe band apartの楽曲には今以上に統一感がなかった。バンドメンバーの音楽の趣味がバラバラ、といった話は大して珍しくもないが、もともとが遊び仲間だった僕たちは、楽曲制作の場面でも各々が遠慮なく自分本位の嗜好性を持ち込んでいた……とか書くと堅苦しくなってしまうけれど、つまりは4人それぞれの「こんな感じの曲カッコよくない?」が溢れ出している状態。当時の原はまるで注文の多い多国籍料理店のシェフのようにそれらを調理していった。 

 展開の凝ったメロディックパンクがあるかと思えば、「Let’ Go!!」の掛け声で始まるファストチューンもあったし、『Load』期のMetallicaのような曲、ギターポップ風、「さよなら大統領」というタイトルの謎のバラードなど、思い返せば枚挙にいとまがない。ミクスチャー風のサビがある楽曲では川崎がシャウトしたりもしていた。

 十条のライブハウスに出ていたその時期は、店長に「いろいろなジャンルに手を出し過ぎてて消化不良。あと、もっとドラム練習しろ」という趣旨のことをよく言われていた。

 そんなアドバイスを右から左に受け流しつつ、知り合った他のバンドに呼ばれたりするうちに、僕たちはやがて学生とは思えない頻度でブッキングライブをこなすようになっていく。出演するライブハウスも、十条から高円寺や渋谷、下北沢へと移っていった。最初のCDリリースのきっかけに繋がるナオトさん(三浦直仁/現・渋谷CYCLONE&GARRETオーナー)との出会いも、高円寺GEARでのことである。

 ノルマのチケットはもちろん自腹だったので、ライブをするためにアルバイト代の大半を使っているような有様だったが、いろいろな場所で演奏できるのが単純に楽しかったから、文句を言うメンバーは誰もいなかった。が、川崎はこの期間に「公認会計士試験の勉強のため」という彼らしい真面目な理由で半年バンドを休んだりしている。荒井は大学に通いながらイタリアンレストラン・チェーンのキッチン、原は工事現場や紙工場などで働いていたと思う。

 僕はと言えば、せっかく受かった大学へほとんど行かずに、歌舞伎町のカラオケ店で客引きのアルバイトをしていた。今では禁止されている路上での客引きがその頃はまだ公然と行われていて、スカウトやホスト、飲食、カラオケなどの業種によって店舗ごとの縄張りがあり、当然それを超えた/超えないのトラブルも日常茶飯事だった。

 さらには、そんな揉め事が可愛く見えるような暴力だったり、普通の学生が関わらないような人たちの生態の一端に触れる日々はなかなかの人生勉強になったけれど、大学は結局中退してしまったので、それだけは両親に申し訳なく思っている。 

 そんな職場にはダンサーやDJを志望する年上の同僚が何人かいて、バイト終わりに時々クラブへ遊びに行った。ヒップホップDJ志望のNさんは、当時少なくなかった「サンプリングトラック以外はヒップホップと認めないタイプ」の人だったので、行ったクラブでDJがN.O.R.E.「Superthug」などをかけたりすると、「こいつクソだから煙草吸いにいこうぜ」とバーカウンターでよくビールを奢ってくれた。

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