小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』エピソード4 アンティーブーモンテカルロ 村井邦彦・吉田俊宏 作

『モンパルナス1934』エピソード4

エピソード4
アンティーブーモンテカルロ ♯2

「ねえねえ、そろそろカールトンに行きましょうよ」とシモンがもう待ちきれないといった調子で言った。昼間の水泳大会と同じように、今夜はゴールドスミス氏主催のダンスパーティーが開かれるという話は、紫郎も彼女から聞かされていた。
 ロンドンやパリなどヨーロッパ各地をツアーしている米国のビッグバンドに、モンテカルロやマルセイユ、ニースなどコート・ダジュールの各地から選抜されたミュージシャンが加わって演奏するとあって、カンヌの若者の大半が集まるという。これまで夜間の外出は許されなかったが、今夜は14歳になった記念に初めて華やかなパーティーに参加できるのだから、シモンがはやる気持ちを抑えられないのも無理はない。
「その前にもう一つお楽しみがあるわよ」。エドモンドがケーキを運んできた。真っ赤に熟した大きなイチゴが生クリームの間から幾つも顔を出している。
「わあ、フレズリね。おいしそう」とシモンがはしゃいだ。やはりまだ14歳だ。

フレズリ(イチゴのケーキ)

「ねえ、シモン。僕からも君にプレゼントがあるんだけどな」と紫郎はピンク色のリボンを付けた円い箱を手渡した。みんなの視線がシモンの手元に集まった。
「ジャン=ポール・エルメの包装紙だから、開けなくても分かるわ。マカロンね。ああ、どうしよう。私の大好物なのよ。シロー、どうもありがとう。開けるのがもったいないわ」と言いながら、シモンは途中まではがした包装紙を元に戻したり、またはがしたりして「ああ、どうしよう、どうしよう」と呪文のように唱えている。
 大人たちは水泳大会の賞品のシャンパンを開けてもう一度乾杯し、甘いフレズリに舌鼓を打った。シモンはついに包装を解き、うやうやしく取り出したマカロンを1枚だけかじって「きゃー、どうしよう。こんな誕生日初めてよ。夢みたい」と言って、大事な宝箱を隠すように抱きかかえながら、自分の部屋に走っていった。

 シローはマルセル、エドモンド、シモンと連れ立ってカールトンホテルに向かった。タキシードと蝶ネクタイはマルセルから借りたのだが、ぴったりと彼の身体にフィットしていた。エドモンドはミモザのような黄色、シモンはラベンダーのような薄紫のドレスを着ている。2人ともドレスと同じ色のリボンが良く似合っている。
「やあ、エドモンド。かわいいドレスだね」。上着からはみ出しそうな分厚い胸板をこれでもかと突き出した短髪の若い男が寄ってきてフランス語で言った。
「ごめんね、フィリップ。お待たせしちゃって」。エドモンドがフランス語を話すのを初めて耳にして、紫郎はちょっと不思議な感覚に陥った。どうやらエドモンドのボーイフレンドのようだ。
「シロー、紹介するわ。フィリップよ。リヨン大学の学生なの」
「アンシャンテ。シローといいます。シロー・カワゾエ。日本から来ました」
「アンシャンテ。フィリップです。フィリップ・ガルティエ。昼間の水泳の話はアランから聞いたよ。すごいね。僕は泳ぎが苦手でね。もっともダンスもあまり得意じゃないんだが」と白い歯を見せて笑った。なかなか気持ちのいい男だと紫郎は思った。品のいいエドモンドにお似合いだ。
「シモン、遅かったわね」と今度はシモンの同級生らしき少女がやってきた。少女というより、もう一人前のレディーだ。昼間の水泳大会にも来ていた記憶がある。紫郎はカミーユと名乗った少女にあいさつして、ダンスパーティーの会場に乗り込んだ。日本のホテルなら大宴会場と呼ばれるであろう大きな部屋の向こうに、庭へと続くテラスが広がっている。庭に設置されたステージでは、15人ほどのビッグバンドが軽快にスイングするジャズを演奏していた。
 室内の各所に設置された丸テーブルでワインを飲む若者もいれば、テーブルとテーブルの間の広いスペースで手を取りあって踊っているカップルもいる。テラスに出てバンドのすぐ近くで踊っているのは、踊りに自信のある連中ばかりのようだ。
 フィリップがエドモンドの手を引いて最前列に出て踊り始めた。マルセルもカミーユの手を取って後を追った。やれやれ、マルセルが妙な気をきかせてくれたようだ。
「シモン、僕でよかったら踊りませんか」と紫郎が言うと、シモンは下を向いたまま「はい」と答えた。
 痩せたシモンの身体は軽々と持ち上がる。彼女がふわりと宙を舞うと、周囲から歓声が湧き上がった。
「シモン、みんなが君に注目しているよ。ラベンダーのドレスが似合っているからなおさらだ」
「シローはダンスがお上手ね。東京ではよく女の人と踊っていたの?」とシモンが訊いた。やれやれ、まだ14歳だが口だけはもう一人前だ。
「社交ダンスというのをちょっとやったことがあるんだけど、すぐにやめてしまったよ。決まった動きをしなくちゃいけないなんて面白くないからさ」
 紫郎とシモンの近くに、激しい動きをするペアが接近してきた。背の高い男が、背の高い女をはるか上空に抱え上げてクルクル回している。「ブラボー」の声がかかる。水泳でやっつけたアメリカ人だった。
「ねえ、シロー、あの人よ。昼間の……。何だか嫌味な人。私、ああいう人、大嫌い」とシモンが小声で吐き捨てるように言った。
「うん、あのアメリカ人だね」と答えた紫郎は、向こうでマルセルがドラムをたたいている黒人と話しているのに気づいた。ドラマーはシャルルだった。紫郎もドラムセットの近くに駆け寄った。
「君がドラマーだなんて知らなかったよ」と紫郎が英語で言うと、シャルルはビートをキープしながら「このバンドのドラマーが急に来られなくなったと聞いて、助っ人を申し出たんですよ」と例の英国調の英語で叫んだ。
「シロー、さっきシャルルと打ち合わせをしました。いい気になっているアメリカ人をダンスでもやっつけてやりましょう。君と僕で踊るんです。とても激しく。あのアメリカ人がまねできないようなダンスを。シロー、君ならできますよね?」とマルセルがウインクして、シャルルに合図を送った。シャルルは急速にテンポアップして、全力で激しいリズムを打ち鳴らし始めた。ピアノとベースがすぐに追随すると、トランペットやサックス、トロンボーンもぐんぐん熱量を上げていく。
「えっ、マルセル、君と僕で踊るのかい? ここで? 激しく?」
「そうです。昼間の泳ぎのように、激しく、美しく」とマルセルが叫んだ。
「よーし、太鼓の乱れ打ちの中で大暴れしようってわけだな。マルセル、チャンバラ映画を見たことがあるかい?」
「もちろん。大河内伝次郎の丹下左膳が好きでした」
「いいぞ。それじゃあ僕はバンツマ、阪東妻三郎だ。よし、行くぞ、丹下左膳」

1930年代に大ヒットしたキャブ・キャロウェイとオーケストラ。ヨーロッパにツアーをして大旋風を巻き起こした

 紫郎はテラスの中央に躍り出て、刀を手にした格好で上段に構えた。マルセルは下段に構えて対峙する。何事が起きたのかと、あっと言う間に2人を囲む人垣ができた。
 シモンとカミーユが「デュエル・ドゥ・サムライ(サムライの決闘よ)」と叫んだのを合図に、紫郎のバンツマとマルセルの伝次郎が激しい立ち回りを始めた。1、2、3、4、1、2、3、4……。刀を合わせては後ずさりし、相手の刀を飛び上がってかわしては斬りつける。1、2、3、4……。一見すると適当に暴れているようだが、2人はシャルルの刻むビートを聞きながら、正確に動いていた。少しずれそうになるとシャルルが合わせてくれた。
 マルセルの鋭い突きを紫郎はとんぼ返りで受け流し、着地した瞬間に突き返す。さらに丸いテーブルの上に片手をついて側転する。そんな早業の連続に、周りの若者たちもダンスを忘れて熱狂している。
「マルセル、こんな時に言うのも何だけど、丹下左膳の映画を作っている日活の初代社長は僕の親父なんだよ」と紫郎は息を切らしながらマルセルに耳打ちした。
「猛烈の猛太郎さんですね」
「そうさ。なんだか猛烈に血が騒いできたよ。マルセル、柔道はできるかい?」
「神戸で習いました。栗原民雄先生に憧れて……」
「よし、いいぞ、それなら僕は鬼の牛島、牛島辰熊だ」
 紫郎がマルセルの上着の襟をつかんだ瞬間、マルセルは真後ろに身を捨て、右足を紫郎の腹に押し当てて彼を空中に放り投げた。必殺の巴投げだ。海老反りの姿勢で宙を舞った紫郎はそのまま直立して着地した。すぐさま前方の壁めがけて猛然とダッシュして、壁面を天井に向けて1歩、2歩と走った後、またとんぼ返りして着地してみせると、大歓声が巻き起こった。
 いつしかバンドの面々も次々と演奏をやめて2人の格闘技ダンスに見入っていた。今やバックの音楽はシャルルのドラムとリーダーのピアノだけだ。
「よし、そろそろ息が上がってきた。マルセル、最後は歌舞伎だ。弁慶と牛若丸。知っているよね? 最後は2人で見得を切って、飛び六方(ろっぽう)で退場しよう」
 紫郎の目論見は見事に当たり、会場は喝采の嵐だった。シモンとカミーユが2人に寄ってきて、自分たちの手柄のように周囲に向けて手を振っている。向こうでエドモンドとフィリップが大笑いしていた。
「シローさん、あんなダンスは見たことがありません。実に素晴らしかった。ああ、それからシャンパンをいただきました。せっかく水泳で勝ち取った賞品なのに……。ありがとうございます。あなたのことは忘れませんよ」とシャルルが握手を求めてきた。
「いえいえ、昼間はろくにお礼も言えずに失礼しました。あなたはラグビーの選手で、法学を修める学生でもあると聞いていましたが、ドラムをたたかせてもプロ級なんですね」と紫郎は言った。
「遊びでやっているだけですよ。ちゃんと習ったことはありません。決まりきったことを習うのは法律だけで十分です」と言って、シャルルは明るく笑った。この男にはかなわないなと紫郎は思った。あのアメリカ人はいつの間にか姿を消していた。

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