村井邦彦×川添象郎「メイキング・オブ・モンパルナス1934」対談

村井邦彦×川添象郎、特別対談

フラメンコギタリストとして過ごした日々

フラメンコギタリスト時代の川添象郎

村井:ヴィレッジのアパートには、他にどんな人が住んでいたの?

川添:上の階にジャズのサックス吹きがいたんだけど、この野郎が朝からでかい音でサックスを吹きやがるんだよ。

村井:ははは。

川添:あんまりやかましいから、殴り込みに行ってね。「いい加減にしろよ」って言ったら、すごく大人しくて良いやつでさ、わ、わ、分かった、分かった、ごめん、ごめんってね。結局、何時から何時まではおまえがサックスを吹いていい、俺は下でギターを弾いているからってことで話がついたんだけど、相手は超有名なジャズミュージシャンだったんだよね。

村井:えーっ、誰だろう?

川添:モダンジャズの……。名前をど忘れしちゃった。

村井:黒人? 白人?

川添:黒人だよ。

村井:ハンク・モブレーかな。

川添:いや、エリック・ドルフィーだ。対談って、こんな話でいいの?

村井:最高だよ。

川添:そういえばガスライトっていうカフェがあってさ、そこで今晩、最近人気の出てきた男が歌うと聞いて行ってみたことがあるんだ。出てきたのはボブ・ディランだった。

村井:うわー、全く映画の世界だね。

川添:そうだよ。変な青年がハーモニカを首にくっつけて、器用にハーモニカを吹きながらギターを弾いて歌うんだ。変な歌い方だなあって思ったけどね。

村井:そんな男がノーベル文学賞を獲ったりするんだから面白いね。

川添:すごい人たちに次々と出くわしていたんだよ、俺はさ。 『フォレスト・ガンプ』の主人公みたいだよ。

村井:そうだね。川添浩史さんだって、モンパルナスにいた頃には象ちゃんと同じようにいろんな人と会って、カフェに溜まって……みたいな感じだったと思うよ。しかも留学した当時は21歳だったんだよね。象ちゃんもヴィレッジにいたのはそのくらいの年齢でしょう?

川添: 20歳から24歳まで。ほとんど親父と同じだね。

村井:ということは24歳までの間にジェームス・ジョイスの劇でヨーロッパツアーに行ったということだよね。

川添:そうそう。ミュージカル『​6​人を乗せた馬車』のミュージシャンとしてヨーロッパに行って、公演が終わってもヨーロッパに残った。その間にスペインへ行って、フラメンコを勉強したんだよ。正確にいうとね、まず『6人を乗せた馬車』の公演でスポレト舞台芸術祭に行ったでしょう。次にアイルランドのダブリンで舞台芸術祭があるんだけど、それまでに7カ月くらい間が空くことになったわけ。

村井:ああ、スペインにはその間に行ったのか。

川添:うん。伊藤貞司​とか、カンパニーの連中はいったんアメリカに帰っちゃったんだけど、俺はその間にスペインに足を運んだわけ。フラメンコをやりたかったからね。

村井:​1962​、​3​年の話かな。

川添:​1962​年。

村井:​まだフランコ独裁の時代だよね。

川添:真っ最中だよ。物騒なんだよね。空港にいると自動小銃を持った兵隊がうろうろしているんだ。税関で「おまえ、何しに来たんだ」って聞かれたから「フラメンコを勉強しにきた」と答えたら「嘘をつけ。中国人がなぜフラメンコなんだ」って言うんだ。それで「俺は日本人だ。いいから聴け」と言ってギターを取り出して弾いたら、やつら目を丸くしちゃってさ(笑)。俺はその足でマドリードの安宿に泊まって「フラメンコギターを弾きたい」と宿のおばちゃんに相談したんだ。フラメンコをやるナイトクラブがあるっていうから「その中で一番良い店を教えてくれ」って頼んだ。教えられたのがコラル・デ・ラ・モレリアっていう……。

村井:行った、行った。​そこ僕も行ったよ。10​年ちょっと前かな。うちの奥さんと一緒にマドリードを初めて旅したんだ。象ちゃんに電話したら、そこを教えてくれたんだよ。

川添:そうだっけ。良かっただろ?

村井:もう最高だったよ。ところでさ、フラメンコってどういうものなのか、よく知らない人にも分かるように解説してくれる?

川添:​オーケー。フラメンコっていうのは、スペインのいわゆる「ジプシー音楽」なんだよ。ロマの人たちの音楽と言った方がいいかな。ロマは流浪の民でね。インドで発祥して、まずアラビアに行き着くわけ。そこでアラブ文化を身につけて、スペインに渡る。スペインに定住したやつもたくさんいるんだけど、それ以外はヨーロッパ中に散っていくわけね。だから「スパニッシュ・ジプシー」とか「ハンガリアン・ジプシー」とか、いろいろあって、それぞれの国の言語を話し、独自の音楽を作るんだよね。スペインのロマの人たちはギターで音楽を作ったわけ。ハンガリーはバイオリンだな。

村井:象ちゃんはロマの人たちと一緒に何カ月か暮らしていたわけでしょう?

川添:うん。さっきの話に戻ると、夜の8時ごろコラル・デ・ラ・モレリアを訪ねていったんだけど、誰もいないんだ。スペインでは始まるのが午前零時だからね。

村井:そうだね。

川添:俺はギターを持って楽屋あたりをぶらぶらしていたんだけど、そのうちに踊り子やギタリストたちが次々と入ってきたんだ。ギタリストの1人が「なぜ中国人がここにいるんだ」って言うから、税関の時と同じようなやり取りをして、またギターを弾いたんだ。みんな目が点になっちゃってさ。

村井:そりゃそうだ。サビーカス直伝のギターだもん。

川添:そうそう(笑)。それでみんな集まってきてジャムセッションになっちゃったわけよ。仲良くなって、毎晩そこに通うようになったんだ。ある日、ギタリストの1人がいなくなってしまって、代わりにおまえが弾けよという話になった。それで俺はコラル・デ・ラ・モレリアのステージで3カ月ぐらい弾いていたんだよ。

村井:すごいねえ。象ちゃんは日本に帰ってきてエル・フラメンコ舞踊団を結成するんだよね。僕はまだ大学生だったけど、その手伝いをさせてもらった。踊りは長嶺ヤス子さんがいるし、ギターは象ちゃんがいるけど、歌う人は当時いなかったんだよね、日本に。

川添:そう、それでラファエル・オルテガを呼んできちゃった。

村井:そうだったね。その時の出し物で覚えているのは、詩人のガルシア・ロルカの詩で……。

川添:『午後の5時に』だね。あれはロルカが友人の闘牛士を追悼するために書いた詩なんですよ。その友人はすでに闘牛から引退していたんだけど、急きょ代役として引っ張り出され、深手を負って死んでしまうんだ。

村井:友を哀悼する詩なんだね。そういえば、みんなが「タンタン」と呼んでいた象ちゃんの義母の梶子さんはイタリア語の詩がすごく好きだったんだって?

川添:うん。そもそも『午後の5時に』をやるようになったのは、タンタンの影響なんだよ。彼女はイタリア語で詩を朗読するのが大好きだった。ロルカの『午後の5時に』の原詩はもちろんスペイン語なんだけど、ある日、彼女がこの詩のイタリア語訳を朗読していたのを俺が耳にして、長嶺ヤス子に「これやろうよ」と持ち掛けたんだ。 

村井:へえー、そうだったの。ロルカは川添さんの友達だった報道写真家のロバート・キャパがスペイン内戦の写真を撮っていた時期にフランコの軍隊に銃殺されるんだよね。​1936​年だったかな。 

川添:そうそう。 

村井:「モンパルナス1934」のために、今はそういう時代のことをいろいろと考えているんだ。 

川添:深い内容になりそうだねえ。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「インタビュー」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる